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THIS IS FOOTBALL/新しい誇りを手に入れるための闘い

1990年代の後半、サンフレッチェ広島を応援している人々にとっては、辛い日々が続いた。

1997年秋には経営危機が露呈し、オフには高木琢也・路木龍次が完全移籍でチームを離れ、盧廷潤も広島去った。森保一は京都へ期限付き移籍。翌年のオフ、森保は戻ってきたが今度は柳本啓成が移籍。経営の方は1998年夏に就任した久保允誉社長(現会長)の辣腕によって改善の方向に向かっていたが、1994年のファーストステージ優勝を成し遂げたチームの力は、一向に復活の様相を見せていなかった。

当時のエディ・トムソン監督は、極めて現実的なサッカーを展開した。5バックで後ろを固め、攻撃はロングボールからのカウンター。久保竜彦という稀代のストライカーがいるからこその戦術であり、当時の広島には上村健一やトニー・ポポヴィッチ、伊藤哲也、宮澤浩ら素晴らしいCBが揃っていたこともある。1999年からスタートしたJ2への降格を避けるためには、徹底的に守備的で攻撃はノーリスク、カウンターとセットプレーに懸けるという現実路線しかないと当時の指揮官は考えた。

当時、トムソン監督を取材していた人間として、それを否定するつもりはない。事実、彼は森﨑兄弟や駒野友一、松下裕樹、山形恭平、中山元気、八田康介といったいわゆる「スーパーセブン」が加入してきた2000年、エディ・トムソンはポツリといった。

「彼らを私が育てれば、数年でチームをトップ4に押し上げてみせる」

カズも浩司も含め、彼らはそれまでのエディ流のサッカーに適していたわけではない。彼らを育てることで、本来のエディがやりたかった「マイボールを大切にするサッカー」を実現したかった。だが、その時はもう、エディ・トムソン監督の契約は満了を迎えていた。契約の延長はなかった。

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