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青山敏弘物語〜逆境〜 第21章/五輪落選、そして右サイド

2008年のサンフレッチェ広島は、おそらくは史上最強である。42試合で勝点100、99得点、第1節から最終節まで首位を守り通した展開。試合内容も圧巻で、負ける空気はまるでなかった。シーズン後半は試合前に記者室で「今日は勝てるかな」などと考えることはまずない。「何点入れるか」「何点差になるか」ということしか、思わなかった。不遜と言われても仕方ないが、それだけ圧巻だったのだ。シーズンが終わって「J2ベストイレブン」という企画があったが、C大阪の香川真司とか湘南の石原直樹とか、様々な活躍した選手はいたとは認識しているが、ずっと広島を見てきた者としては「11人全て、広島でいい」と思ってしまう。唯一、GKは林卓人(当時仙台)でいいのではとも思ったが、他は全て広島であるべきだと思った。それほど、強かったのだ。

その強さは9月14日の第35節、2位・山形との直接対決でも表現された。2位との対決といっても、山形との勝点差は16ポイント差。優勝争いとか昇格争いというのは既に興味の外にあり、広島側の興味としては9月中の昇格決定があるかどうか、だけだった。そしてそれは山形戦の2試合後、9月23日の対愛媛戦で実現する。

この山形戦、広島はいつもの布陣が組めなかった。右サイドのレギュラーを張っていた李漢宰が出場停止になったことで、彼のかわりに誰を入れるかは1つの関心事となった。有力候補であるはずの森脇良太は膝の負傷で長期離脱中。守備の強さを誇る橋内優也もケガから復帰したばかりでコンディションはまだまだ。楽山孝志をシーズン途中で獲得したが、ペトロヴィッチ監督の信頼を得るまでには至っていない。なにせ相手は2位・山形。山形の左サイドには1999年ワールドユース準優勝チームメンバーである石川竜也がいる。強敵である。

ペトロヴィッチ監督が選択したのは、青山敏弘だった。

実はこの頃。指揮官はある悩みに陥っていた。先発をどう構成するか問題である。

シーズン前半は故障者も続出し、コンディションがあがっていない選手もいて、そんなことに悩んでいる場合ではなかった。しかし夏場をすぎて、柏木陽介と髙柳一誠がようやく本来のコンディションをとり戻してくると、指揮官は悩み出す。あれほど機能していたカズと青山のダブルボランチを解体し、カズを最終ラインで使い始めた。浩司をボランチに下げ、兄を右ストッパーやリベロで起用し出したのだ。2人のコンビが解体された第22節の徳島戦ではなんとか勝利を収めたが、第24節からはストヤノフが離脱して不在となったリベロの位置にカズを入れて凌ごうとする。勝点という結果こそ積み重ねていたが内容は少しずつ落ち込み始め、そして第30節・仙台戦で引き分け、第31節・甲府戦で敗戦。内容の悪さにカズは「ここから苦しくなるかもしれない。練習の雰囲気もよくない」と危機感を募らせていた。今思えば、このシーズンで最後の苦境。昇格前の生みの苦しみだったと言っていい。

第32節、カズと青山のダブルボランチが10試合ぶりに復活すると福岡に4−0の完勝。「ここから連勝をスタートさせる」というカズの決意どおり、次の水戸戦で4−1、岐阜戦では7−1と3試合で15得点(平均5得点)という驚異的な爆発力を発揮してJ2を震撼とさせた。そこで迎えた2位・山形との直接対決で、またもペトロヴィッチ監督はカズ・青山コンビを解体させたのだ。確かに誰を起用するかは難しい状況にはあった。しかし、あえて上手くいっているコンビをバラバラにする必要はあったかという疑問はどうしても残る。まだ戦術を吸収している段階だったとはいえ楽山孝志はウイングバックが本職だし、髙柳一誠も右サイドの経験は持っていた。にもかかわらず、右には青山を起用し、浩司を1列さげる決断を指揮官は下した。振り返ると、カズをよくストッパーやリベロで起用してきたミハイロ・ペトロヴィッチだったが、青山をボランチから外したのは彼を抜擢した2006年にトップ下で使った数試合しかない。なのにどうして、この時に彼を右に動かしたのか、その本意はよくわからない。

そもそもこの時期、青山は言い知れぬ不安と戦っていた。そのきっかけは7月14日、北京五輪日本代表落選のニュースだった。

2007年アジア最終予選のサウジアラビア戦で闘魂のシュートブロックを見せて本大会進出に貢献したとはいえ、五輪代表の中で絶対的な存在となっていたわけではない。自分がどうなるのかという不安を常に心に抱えていた青山は、その想いを広島にぶつけた。しかし、代表に招集されても結果がついてこず、7月の合宿では招集そのものを見送られた。この時点で「五輪はない」と諦めてはいたが、それでも一縷の可能性があることにも気づいていた。

7月14日、代表発表。青山は新しいスパイクをつくるために大阪まで赴いていた。クラブからは「招集されたら記者会見があるから、広島に戻ってくるように」と言われていた。

新幹線に乗って帰広の途中、携帯電話が鳴った。織田秀和強化部長(当時)からだった。

要件は1つ。招集か、残念か。

電話がとれなかった。織田部長のメッセージは留守番電話に。確認した。結果は、否。その時、22歳の青年は衝動的な行動を起こす。次に止まった岡山駅で、電車をおりてしまったのだ。

意味はなかった。ただ、何もする気持ちもなく、誰にも会いたくないと思い詰めた。

そのまま、ホームに並べられた椅子に腰をおろし、虚空を見つめていた。1時間たっても、動けなかった。

「連絡、しなきゃ」

携帯を取りだし、電話をかける。実家で待っていた家族に「ダメだった」と一言。

励ましもほとんど、耳に入ってこないまま、電話を切った。

しばらくすると、1人の仲間から電話が入った、

「今、外を歩いているんや。なんもする気がおきへん。歩く意味なんて、何もないんやけどな」

柏木陽介もまた、五輪代表からこぼれ落ちていた。いつもは電話をかけあうような間柄ではなかったのに、その時はお互い、声が聞きたかった。

電話を切った後、青山は新幹線の電車 に乗った。誰にも会いたくないから自由車の1号車に乗り、1番前に座った。何時に家に戻ったのかも、覚えていない。そこからはチームのためだけに、必死で闘っていた。広島をJ1に戻すためだけの生活だった。だが、カズとのコンビが解体されて厳しい状況を5勝2分という成績で乗り切ったにも関わらず、青山は自信を取り戻したとは言い難かった。常にポジションへの不安を抱え、自分の存在そのものに対する確固たる想いを確立できすにいた。勝点という結果はついてきていても、試合内容に問題を抱えていたこともまた、本当の自信を手にできなかった要因だろう。

第31節、甲府戦で久しぶりの完敗。ケガから復帰したストヤノフが「恥ずかしい試合をした。サポーターに謝罪したい」とまで言ったほどに、何もできない試合だった。そしてこの試合の87分、青山はイエローカードを受け、次節は出場停止になってしまう。チームとしての大きな危機。だが、ここでボランチに復帰した森﨑和幸がめざましい活躍を見せ、柏木陽介もまた1得点1アシストで結果を残した。4−0というスコア以上に輝きを見せたサンフレッチェ広島というチームをスタンドから見ていた「広島のエンジン」は、自分がいないチームの完勝に震撼した。

「俺がいなくても、チームはいい。もう先発で出られないかも」

もちろん、そんなことはなく、出場停止明けの水戸戦・岐阜戦で活躍しても、危機感は消えない。

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