ニイガタフットボールプレス

【勝手に蹴りやがれ】あの対談を終えて、気付いたこと。

新型ウイルスの感染拡大防止と予防対策、拡散防止のため、トップチームは17日に活動を休止した。

取材の現場では、それ以前から対応策が取られていた。たとえばトレーニング終わりに選手や監督・スタッフに話を聞くのは、天気が良ければ屋外で、距離を取って。そうでなければ、クラブハウス内で、テレビ会議アプリを使って取材した。

なので、4月13日から3回にわたって連載した内田潤U-15監督(当時)と堀米悠斗選手(ゴメス選手)の対談も、アプリを使っての取材となった。着席して小一時間、話すことになるからだ。

僕にとっては初めての方式だったが、まあ、これが難しかった。画像と音声に、わずかだけれども生じる時間差で、発言がぶつかってしまう。ぶつかりそうになって、つい詰まってしまう。ノッキングする、する。

いつもであれば、誰かの発言に被せ気味に誰かが言葉を重ねて盛り上がるのだけれど、それができない。一人ずつ、誰かがしゃべり終わるのを待たないと、次が発言しづらい。全然、突っ込めない。盛り上がり切れない。『こりゃあ、ねえな。特に対談取材は』というのが、正直なところだ。

対談の音源を文字起こししていて、『ああっ、ここはもっと話を膨らませるべきだった!!』という箇所に出くわした。不慣れな取材方式ではあったが、何とか対談を進めようと四苦八苦していたのも事実。だが、それでもそのことについて、もっと深く掘り下げるべきだった。

対談はまず、互いの近況を聞くことから始まった。そして話題は、2011年3月11日、東日本大震災へと移る。当時、ウチさんはバリバリの現役で、高校2年のゴメス選手は札幌U-18の選手。ウチさんには1カ月、Jリーグが中断したときのことを、ゴメス選手には震災から3年後のプロ2年目に、福島に期限付き移籍したときのことを聞いた。

それぞれの立場で「非常時のJリーガー」を経験し、いま、どう生かすか。この質問に、ウチさんは次のように答えた。

「経験を生かすことになるかは分からないですけど、僕が一番に考えるのは、命ということです。アルビはこの地域で発信力がありますから、われわれアカデミーが活動することがメッセージになります。その上で、僕は新型ウイルスに感染しないこと、命ということの重要さについて考えます。それで、週末だけ全体練習をするという決断になっているんです」

取材当時、アルビレックス新潟U-15は、平日は全体練習を行わず自主トレをして、グラウンドが解放される週末は全体で練習する体制を取っていた。これについてウチさんは、「新型ウイルスに感染しないこと、命ということについて考えている」と発言した。まさにここを、僕は深掘りしなければならなかったのだ。

命が大切なのは、当然である。

そしてそのとき、ウチさんが発した「命」という言葉に敏感に反応し、話を膨らませなければならなかった。もっとしっかり重みを受け止めなければならなかった。

ウチさんが「命」と発するとき、そこには阪神・淡路大震災で亡くなったおばあちゃんのことも、含まれる。

兵庫県尼崎市で生まれ育ったウチさんは、当時17歳で、横浜の桐蔭学園高校でサッカーをしていた。1995年1月17日、震災が起きた。

「その日、授業が終わって、『練習だ』となったところで、スタッフから『すぐ実家に電話しろ』と言われたんです。『何でだろう?』と思いました。そのときはまだ、地震のことを知らなかったんです。

当時は携帯なんて普及していなかったから、公衆電話から実家に掛けました。すると母親が出て、親父は中国に出張していたので、家には母親と妹だけだという。それで2人の生存は確認できました。

2日ほどたって親父が帰ってきて、僕もしばらくして実家に戻りました。すぐに尼崎に帰れたわけではなかったんです。新幹線のチケットが取れ次第でした。

ばあちゃんの家は、特に被害の大きかった神戸の東灘区にあって、ばあちゃんはひとりで暮らしていました。

そのときは電車も止まっているし、車も走れるような状況ではなかった。阪神高速が倒壊したり、道路がめちゃめちゃ波打っていたり。そんな中、尼崎から東灘のばあちゃんの家まで、親父が原付に乗って行こうと何回もチャレンジするんですけど、いろいろなところが通行止めになっていて、なかなかたどり着けない。

尼崎から東灘まで、距離があるだけじゃなく、いろいろな物をよけながら、さらに迂回しながらだったので、相当、時間が掛かったみたいです。いまだったら携帯があって、その場でいろいろやり取りできたんでしょうけど、当時はとにかく親父が帰ってくるのを待つしかなかった。祈るような時間がすごく長かったのを覚えています。

何回かチャレンジした後、帰ってきた親父が、『今日、やっと着いた。やっぱり、だめだった』と言いました。ばあちゃんは足腰が悪く、2階建ての1階に寝ていたんです。直下型の地震だったから、家は完全に崩れていて、『即死だったと思う』と親父から聞かされました。

東灘は、神戸でも特に被害がひどかった地域。僕が足を運べたのは、ある程度、地震から日が経ってからでしたが、それでもすごい状況だった。『親父、よくこんな中を原付でばあちゃんの家まで行ったな』と驚きでした」

対談でウチさんが「命」について話したとき、僕は、東灘のおばあちゃんの話題を持ち出すべきだったのではないか。いま、そう思う。

そこから話がどう展開し、膨らむか(あるいは、さほど膨らまなかったか)は分からない。それでもその話を以前、ウチさんから聞いていた自分は、その場に問う必要があったのではないだろうか。日常であれ、非常時であれ、第一に考えるのは命、というウチさんの発言を受けて。

取材が終わると、ウチさんもゴメス選手も、「全然、しゃべり足りない。状況が落ち着いたら、改めてまた対談をやりましょう」と言ってくれた。

本当にそう。とにかくモニター越しの対談は、超やりにくい。

けれどもそれはもう、かなわない。

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