ヴォルティススタジアム

【無料掲載|引退インタビュー】「自分の得意なことを伸ばせば絶対に負けない」(藤田征也)。

リーグ戦416試合、カップ戦を含めれば公式戦出場記録は450試合を優に超える。札幌ユースからトップ昇格してプロ生活をスタートし、世代別日本代表では世界各国の強豪としのぎを削った。徳島ではJ1昇格を果たした20年に1ゴール10アシストの記録を残し、クラブ2度目のJ1挑戦へ導いてくれた。プロ生活17年、引退を決断した藤田征也。その過去、現在、未来をお届けしたい。

聞き手/柏原敏 取材日/1月5日

2022年

【引退を決断した藤田の現在】

――たくさんの感動と喜びを与えてくれて「本当にありがとうございました」。引退を決断した現在の率直な気持ちを聞かせてください。
うーん、まだ実感はあまり無いですね。ただ、昨シーズンの始まる前頃から引退後について考えながら過ごしていた部分もありました。子ども達にサッカーを教えたいとも思い始めていました。そういう経緯もあって、契約が満了になってからは指導者の道についても模索するようになりました。でも、指導者に関しても、今回のようにクラブから声をかけていただけるというのはなかなか無いことだと思っています。そういったことも含めて幸せなサッカー人生だと感じています。

――『北海道コンサドーレ札幌』でアカデミーのスタッフとして声をかけていただいたのですね?
ありがたいことに札幌が声をかけてくれました。もちろん選手として必要としてくれるチームがあれば現役を続けることも考えていました。ただ、プロとして17年間を過ごせて、いろいろな良い経験もできました。その中で札幌が「アカデミーでやって欲しい」と言ってくれたので新しい道に進むことを決めました。誰もが声をかけてもらえるわけではないことだと思っています。本当に感謝したいですし、僕は周りの方々に恵まれてきたプロ生活だったと最後の最後まで感じました。

 

【プロキャリアを振り返る】

――クラブ公式サイト内の『VOICE』というコーナーでキャリアをうかがった際、“藤田征也”が過ごした幼少期の天才っぷりをたくさん聞かせていただきました。総括すると華々しいサッカー人生でしたか?
(笑)。すごく順調だったと言っていいかわかりませんが、子どもの頃は挫折を知らずに育ちました。もちろんプロ入りしてからは、さまざまな苦労をしています。でも、小・中学生の頃は、夢とかではなくて、「自分は絶対にプロになるものだ」と思ってやっていました。子どもの頃は、エリートだったと思います(笑)。

――天才発言(笑)。プロ入り後のサッカー人生も振り返っていただけますか?
札幌はユース時代からお世話になって、自分を育ててもらったクラブです。トップ昇格できて、1年目から試合に絡めて、2年目は年間通して出場できた中でJ2優勝とJ1昇格を経験できました。5年間しか在籍できませんでしたが、地元のクラブですし、思い入れがあります。

新潟は初めての移籍でした。覚悟を持って移籍し、J1で結果を残し、日本代表や高い目標を掲げていました。でも、なかなかチームに貢献することができず、試合に出られない時期もありました。それでも、J1の残留争いという厳しい戦いも経験し、精神的に成長できた場所になりました。

湘南は新潟で自分の調子が上がらずになかなか上手くいかなかった時に声をかけてもらって、シーズン途中で加入しました。当時は湘南はJ2で、すごく若いチームでしたね。僕は26~27歳頃でしたが、それでも年齢は上から3~4番目でした。チームを引っ張っていかなければいけないという想いでした。若いはずなんですけど、湘南ではベテラン扱いをされていましたね(笑)。リーダーシップであり、チームの見本になる姿を見せるということを湘南では経験できました。若くて勢いがあって、厳しさもある中で過ごした時間でしたが、おそらく湘南に行っていなかったとしたらプロ生活を17年間も続けられなかっただろうなと感じています。

――世代別日本代表で日の丸を背負った思い出も聞かせてください。
U-14で初めて日本代表に入り、そこからU-17までは常に入っていました。でも、U-18・19では呼ばれなくなって、正直に言って U-20のワールドカップに自分は行けないだろうと思っていました。ただ、当時の(札幌の)監督からは「コンサ(札幌)で試合に出続けていれば絶対に代表に呼んでもらえる。行ける」と言われていて、プロ2年目だったのですが自分も好調で結果を残せていました。

そんな時にワールドカップの本選だけ急に参加することになりました。もちろん嬉しい気持ちもありました。でも、アジアの厳しい戦いを勝ち抜いてきたチームの中には、自分が本選でメンバー入りすることで入れなくなった選手もいました。複雑というか、難しい心境で臨んだ大会だったのを覚えています。ただ、「調子乗り世代と呼ばれていた世代(笑)」でもあって、槙野(智章)とか昔から知っていた選手も多くて、みんなが温かく迎え入れてくれました。ベスト16まで勝ち進むことができました。ベスト16ではチェコにPK戦で敗れてしまいましたが、そのチェコが準優勝して、そういった相手と対戦できたことも刺激になりました。調子乗り世代のチームメイトとも一緒にたくさんの時間を過ごして、その後も活躍している姿に刺激を受けていました。

――最後に、徳島についても聞かせてください。19年に加入し、直ぐさま昇格争いに貢献されました。20年はJ2優勝&J1昇格の立役者の一人でもあります。ただ、振り返りると徳島にはトライアウトを経て加入したという経緯もあり、紆余曲折あったのでしょうね。
湘南で過ごした最後のシーズンは怪我も多くて、なかなかコンディションが整わずに出場できた試合数も少なかったです。契約満了になりましたが、正直に言うとトライアウトを受けなくても話があるのではないかと思っていた所もありました。でも、代理人と相談する中で「(それぞれのクラブの強化担当者に)怪我の影響がないことを証明して欲しい」と言われて出ることになりました。それでも自分としてはプライドがあったと言うか、すごく難しい心境でトライアウトを受けたのを覚えています。でも、その時のプレーを徳島が観てくれて、声をかけてくれることにつながりました。以前から徳島のサッカーは「面白いな」「自分にも合うんじゃないかな」と思っていたので、話をいただいた時は直ぐに徳島でプレーしたいという想いになりました。

2019千葉戦(A)ゴール

僕の経験を伝えて、絶対にJ2優勝させてJ1昇格すると思っていました。1年目から昇格争いができて、2年目はJ2優勝をできてすごく良いシーズンになりました。徳島には、拾ってもらえたという気持ちがあります。本当に感謝しています。若手が多いチームだったので、自分の伝えられることは伝えて、練習の姿勢やプレーでも見せていくことができればと思っていました。それが少しでも若い選手に響いていたとしたら嬉しいです。自分の中では自分の役割をできたのかなと思っているので、少しは恩返しできたのかなと感じています。

 

【藤田の一番】

――リーグ戦の出場記録は400試合を超え、公式戦を合計すると450試合以上に出場しました。一番の思い出は?
一番は初ゴールを決めた試合ですね。札幌のプロ2年目、ホームで戦った第2節・鳥栖戦(1○0)です。スタメンの予定だった選手が風邪をひいたか怪我をしたかで出られなくなり、その次に準備していた選手が体調不良か何かで出られなくなって、自分に巡ってきたチャンスでした。そのタイミングで得点をできて、勝つこともできました。結果的にそれがスタメン定着にもつながりました。あの試合が本当にターニングポイントでした。

 

【職人だからこそ】

――プレイヤーとしてはバランス型というよりも、『右足クロス×突破力』という明確な武器を持っていた職人だったと思います。
「キックの精度と縦の突破」は負けないと思っていました。それを出せれば結果にもつながって、チームにもいい影響を与えられると思っていました。その武器があったからこそ、ここまで生き残って来られたと思います。

2022年

――自分の武器を大切にする考え方はサッカー以外にも通じることがありそうです。指導者人生を歩む上でも活きてくるのではないでしょうか?
もちろん子ども達にはいろんなことを教えてあげなければいけないと思います。ただ、僕の中では子ども達も選手それぞれに特長があると思います。それぞれの武器を伸ばしてあげて、自信を持たせてあげられるようになりたいです。

――一方で、明確な武器を持つということは、そこを封じられて超えなければならない壁と直面した時もあったと思います。その時はどういうメンタルで戦ってきたのですか?
上手くいかなくなった時に、例えば左足ももっと使えるようになった方がいいとか、もっと中に入って行くプレーも増やした方がいいとか、周囲からはいろんなアドバイスをもらいました。自分自身としてもいろんな選択肢があった方がいいと思った時期はありました。でも、自分が得意だと思っていることで相手に勝てないのであれば、その先は無いとも思っていました。

「自分の得意なことを伸ばせば絶対に負けない」。

他のことをやるよりも、自分が自信を持っていることを磨こうと意識していました。1回、2回負けたからといって諦めない。続けることを意識していました。

 

【徳島での暮らし】

――徳島ではお子さまがアカデミーに所属していたこともあって、いろんな背中を見せられたのではないですか?
実は息子がヴォルティスに加入してからは、なかなか出場する試合を見せられませんでした。それは残念だったというか、もう少しやれたらと思う部分もありました。でも、息子と一緒にサッカーもできましたし、息子のサッカー友達と会うとすごく喜んでくれたりもして、サッカー選手というのはいい職業だとあらためて感じました。

――他にも思い出はありますか? 『阿波おどり』も参加されましたよね?
加入した1年目に参加しましたよ。『阿波おどり』は・・・、参加するよりも観たいと思いました(笑)。徳島では息子の友達のご家族にもすごく助けてもらっていて、周りの方々に恵まれていました。いい人達ばかりでした。また遊びに来たいです。

 

【感謝】

――影響を受けた方をはじめ、この場を借りて感謝を伝えたい方はいますか?
影響を受けたのは、引退されましたが札幌と新潟で一緒にプレーした経験のある石川直樹さんです。サッカーだけではなくて、人間性も学びました。なおさんと一緒にプレーできたことが、湘南に行ってからのリーダーシップや姿勢につながったと思います。感謝しています。いい影響を与えてれたと思います。引退することについても相談と報告をしました。

感謝を伝えたいのは、家族です。たくさん移籍をしました。家族には相談をせず、僕が決めていた部分もありました。それでも文句を言うことなく、ついてきてくれました。子どもは仲良くなった友達と離れなければいけなくなったことは何度もあったと思います。きっと今回もそうですね。

通算400試合出場達成セレモニー(2021年)

――最後に、徳島のファン・サポーターの方々へ。そして、“藤田征也”を全国からサポートしてくれた方々へ。メッセージをお願いします。
17年間、プレーできました。アツい声援をいただきました。本当にありがとうございました。これからは子ども達のために経験を活かします。そして、皆さんが応援したくなるような選手を育てたいと思います。これからの“藤田征也”もよろしくお願いします。

2020年大宮戦FKでゴール

――夢はありますか?
コンサドーレのアカデミーの選手たちを教えることになるので、彼らを日本一にしたいです。そして、有望な選手は高校に行く時などに道外へ出ていくのが今の主流かもしれませんが、それを関東や全国から北海道に行きたいと思ってもらえるようなチームを作っていきたいという想いがあります。

――では、この先は徳島のライバルですね。
そうかもしれませんね(笑)。対戦できる日が、めちゃくちゃ楽しみです。

――プロ生活、心残りはありませんか?
無いと思います。引退してもう少し経ったら、またやりたいと思うかもしれません。そうなったとしても、その想いも子ども達に託して頑張ってもらいたいと思っています。

2021年札幌戦より

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