【無料掲載|引退インタビュー】「徳島でプロサッカー選手になることができて、徳島で引退できて、徳島で仕事に就けて、僕は本当に幸せです」(佐藤晃大)。
プロ生活14年。誰からも愛され、その気持ちに誰よりも応えた佐藤晃大。楽しい時間よりも、怪我に泣かされた時間の方が長かったかもしれない。それでも走り続けられた理由。最後のインタビューで少し垣間見えたかもしれない。パンチくんの未来に、幸アレ。
聞き手/柏原敏 取材日/1月4日
【引退を決断した佐藤の現在】
――たくさんの感動と喜びを与えてくれて「本当にありがとうございました」。引退を決断した現在の率直な気持ちを聞かせてください。
“今は”引退を決めてから時間が経って、清々しい気持ちというか、次に向かって進んでいます。
――“今は”と切り出されたということは、契約満了を伝えられた直後は異なる心境でしたか?
なんとなく想像はしていましたし、僕自身は契約満了になったら引退をしようという考えでいました。でも、いざ契約満了になって「サッカーができなくなるのか」と考えると寂しい気持ちにもなって、妻にも相談しながら「体が動いて可能性があるのなら最後まで続けた方がいいのでは?」と言ってもらってトライアウトを受けに行きました。なかなか思い描いていたようにはいきませんでしたが、声をかけてくださったクラブもあって本当にありがたかったです。自分が独り身だったら飛び込んでみたかもしれません。でも、3人の子どももいますし、総合的に考えて引退を決断しました。そして、クラブからフロントスタッフとして迎え入れてくれるという話をいただいていたことも本当にありがたかったです。トライアウトの結果が出るまで返事も待ってくれました。本当に感謝しています。
――徳島ヴォルティスで勤務される話題が聞けましたので、インタビュー内容は前後しますが冒頭で今後の話を先に聞かせてください。
徳島ヴォルティスの営業職として、2月から働かせていただきます。「僕が営業できるかな」と思ったりもしましたが、社長からも営業部長からも「大丈夫。できる!」と言っていただきました。今までサッカーしかやってきていなくて、違う世界を経験してみたいという気持ちもありました。営業職に挑戦しようと決めました。
【プロサッカー人生を振り返る】
――プロ生活のスタートを切った徳島での3年間、J1に挑戦したG大阪での3年間、徳島に復帰してからの8年間。大きく3つの時期がありました。それぞれの思い出を聞かせてください。
プロ初年度は「本当にアマチュアだったな」と覚えています。プレーもそうですけど、気持ちの面でもそうでした。当時の美濃部(直彦)監督に怒られたり、厳しく接してもらって「プロとは何か」を教わりました。振り返るとプロ生活を徳島で始められて本当に良かったと思っています。美濃部監督だけではなく、小笠原(唯志)ヘッドコーチであり、フィジカルコーチのカルロスもそうでしたし、いろんな人たちと出会えたことに感謝しています。練習後も残ってトレーニングをしてもらいました。最初の3年間でアマチュアからプロになることを教えてもらったことが、自分にとって大きなできごとだったと思います。
G大阪での3年間は、超・ビッグクラブからのオファーで「僕なんかが行っていいのか」といろんな先輩方に相談もしました。「オファーが来ているなら絶対に行った方がいい」。そう言ってくれて、行かせていただきました。G大阪には知り合いもいなくて最初は心細い中で過ごしていましたけど、本当にどの選手も優しくて。当時所属していた、ヤットさん(遠藤保仁)、今野(泰幸)さん、明神(智和)さん、加地(亮)さん、藤ヶ谷(陽介)さんなど。ビッグネームの方々ばかりでしたが、すごい経歴の方々ばかりなのに、みんなすごく優しく接してくれました。何て言ったらいいのでしょうか。偉そうにする方はいなくて、そういう方々は人間性もしっかりしていることを学びました。他にはJ1自体が僕には初めてで、何から何まで自分が見たことのない世界でした。ただ、移籍した1年目に自分が出場させてもらっていた中で、G大阪をJ2に降格させてしまったことを今でも申し訳なく思っています。G大阪については、その気持ちが一番大きいです。
徳島に復帰してからはプロにしてくれたクラブに恩返しと言いますか、J1にまた上げるために帰ってきて絶対に貢献してやろうという気持ちでした。でも、なかなか力になることができず、怪我も多かったですし、辛い時期が多かったと感じています。20年にJ1昇格したシーズンオフには(強化本部長)岡田さんに「引退をしようと思っています」と話したこともありました。でも、岡田さんは「続けて欲しい」と言ってくれました。「僕なんかがチームの力になれているのか」と思っていたので、そう言ってくれたことにすごく感謝しています。でも、その後も怪我が多くて、プレー面ではなかなか貢献できませんでした・・・。それなのに引退後の仕事までいただけて、これからは違う形になりますけどチームに恩返しをできればという気持ちがあります。
――「なかなか貢献できなかった」というお話ですが、怪我とも向き合いながら、試合でも練習でも若い選手が多いチームにしっかりと還元してくれたのではないかと感じています。
練習でも試合でも、僕がその日できるすべてを出し尽くしたということは胸を張って言えます。
――「やり切った」、「やり残した」。すべて振り返ると、どちらの感情ですか?
どうでしょうか(苦笑)。振り返ると試合はミスばっかりで、もっともっと得点を取りたかったですし、取らなければいけなかったとも思います。でも、先ほどもお話したように、その日その日にできることをすべて出しました。そういう面では後悔していません。
――怪我が多かった時期は、どうやって向き合ってきたのですか?
僕もきつかったですけど、僕よりも妻がきっと苦しかったと思います。家では食事を変えてみてくれたり、いろんなサポートをしてくれていました。それでも僕が怪我をしてしまって、妻は苦しかったと思います。
トレーナーの方々には感謝をしています。鈴木章史チーフトレーナーや前原久昭トレーナーがオフの日でも出てきてくれてリハビリやケアをしてくれました。その人たちのためにもという気持ちで頑張れたこともあります。
「怪我とどう向き合ってきたか」を説明するのは難しいですね。
――練習場で「苦しいです」といった素振りを見せなかったのが印象深かったです。
結構きつかったんですよ(笑)。
――そうなんですね。でも、そうは感じさせなかった振る舞いを見て、若手選手は学んだのではないでしょうか。
そうであれば嬉しいです。
――その証明は、佐藤選手を見続けてきた徳島の全サポーターたちが担ってくれると思います。自信を持ってください。
ありがとうございます。
――トレーナー陣の話をもう少し触れさせてください。前原トレーナーと雑談をしていた時に佐藤選手が出場した試合や得点した試合を自分のことのように喜んでいました。
章史さん(鈴木章史チーフトレーナー)も前ちゃん(前原久昭トレーナー)もご家族がいるのに僕のために練習場に来てくれて、二人とも僕の体のことを僕以上に理解してくれていました(笑)。これくらい負荷をかけると怪我をするだろうという前に止めてくれたり、いろんなサポートをしてくれました。他クラブに移籍していたとしたら、ここまでプレーできていなかったかもしれません。前ちゃんは同学年で、実は家も隣で、家族で遊ぶ機会も多くて、いつも応援してくれていました。本当に頼もしかったです。
【佐藤の一番】
――月並みな質問ですが、プロ生活で一番記憶に残っている試合は? 一番記憶に残っているゴールは?
この質問は絶対に聞かれるだろうなぁと思って考えていました(笑)。でも、試合もゴールもこれが一番を決めるのは難しいですね・・・。試合ではありませんが、プロ3年目のシーズンは一番多く試合に出場できて、怪我もあまりなくて、昇格争いもできて、充実して楽しかったという印象が残っています。
試合やゴールは・・・、難しいなぁ。逆にどう思いますか?(笑)。
――僕が答えます?(笑)。わかりやすい大舞台だったのは、14年G大阪時代の第32節・浦和戦(2○0)。J1優勝争いの天王山で、残り5~10分程で途中出場して先制弾を決めた場面ですかね。
あの試合は、出場させてもらって本当にありがたかったです。
――徳島でのプロ3年目の話に戻り、J参入後にクラブ初のハットトリックを決めたのがこのシーズンでしたよね? 未来永劫、クラブ史に刻まれ続けるトピックスです。
そうですね。嬉しいことです。でも、最近はハットトリックした選手がたくさん出てきていませんか?
――いやー、たくさんということはないと思いますよ。それに、佐藤選手がプロ3年目の徳島ヴォルティスは「リーグ最下位」という世間からの印象がまだまだ色濃く残っている時代でもあったように思います。そんな中で生まれた佐藤選手のハットトリックであり、クラブ初のJ1昇格争いに名乗りを挙げたことであり、街全体がめちゃくちゃ盛り上がったように記憶しています。
そうですね。プレーしていても楽しかったです。でも、あのシーズンはJ1昇格の可能性が残されていた最終節の第38節・岡山戦(0●1)が累積警告で出場できなくて残念でした。
【恵】
――折角なので、プロ以前の佐藤選手についても聞かせてください。
全然上手じゃなくて、無名でした。大学を卒業して就職を考えていましたが、当時の強化部長だったジミーさん(中田仁司)が同じ大学出身ということもあって観に来てくれていて、声をかけていただきました。それが無ければ今の自分はいなかったと思います。14年プロを続けられるとは思っていませんでしたが、とにかくガムシャラに走り続けてきました。
本当に出会いに恵まれたサッカー人生だと感じています。
プロ初年度の美濃部さんや小笠原さんに指導してもらったことがすごく大きかったですし、どの時期を振り返ってもすべての指導者に恵まれていたと感じています。たくさんの試合にも起用していただきました。G大阪でも長谷川健太監督は僕が結果を残せていなかった時期もたくさん起用してくれて、先ほどお話があった浦和戦も「自分が出場することは絶対に無いだろう」と思っていましたけど、本当に大事な場面で起用してくれました。あそこで起用されなくて、あのゴールが生まれなかったとしたら、僕はこんなに長くプロ生活を続けられていなかったのではないかと感じています。
本当にすべての指導者の方々に感謝しています。
――どの話も素晴らしいです。少し前の質問の答えも「やり切った!」と言い切れる素晴らしいサッカー人生じゃないですか!?
確かにそうですね。幸せですね、恵まれています。
【未来へ】
――今後について
まず、両親がいなければサッカーをできていませんでした。何不自由なくサッカーを続けさせてもらった感謝を伝えたいです。あまり親孝行をできていないので、これからいっぱい親孝行をしなければいけないと思っています。
次に、家族。特に妻です。常に僕のサッカー生活を中心に考えてくれました。子ども達の面倒を見てくれる時も、同時に僕のサッカーのことを考えてくれていました。本当に大変なことだったと思います。今は引退を決めてオフシーズンを過ごしていますが、子ども3人にずっと目を向けていなければいけないのは大変で。妻がどれだけ大変だったかを実感していますし、感謝しています。妻も子どもも、もっと幸せにできるようにしたいです。
そして、徳島ヴォルティスには感謝しかありません。ファン・サポーターの方々、コーチングスタッフ、フロントスタッフ、スポンサーの方々、徳島にかかわるすべての方々に恩返しをしていきたいです。
【応援を続けてくれたファン・サポーターへ】
――重複しますが、最後に引退の挨拶として、徳島のファン・サポーターの方々へ。そして、“佐藤晃大”を全国からサポートしてくれた方々へ。メッセージをお願いします。
ファン・サポーターの方々、14年間応援してくださって本当にありがとうございました。怪我が多くてなかなか試合に出られなかった時も、活躍できなかった時も、応援してくださったから僕は走り続けられました。頑張ってこられました。皆さんのおかげで今の僕があります。徳島ヴォルティスは、絶対に、もっともっと強くなるクラブだと思っています。一緒に徳島ヴォルティスを強くしていきましょう。
「徳島でプロサッカー選手になることができて、徳島で引退できて、徳島で仕事に就けて、僕は本当に幸せです」。
――佐藤選手のチャントは、スタジアムが最も熱を帯びる瞬間でしたね。これからも皆さんが名前を呼んでくれたことを胸に、素晴らしい人生を送ってください。
ウォーミングアップで聞きながら、奮い立たされる想いでした。ありがとうございます。本当に感謝しています。
「佐藤晃大、アレ!」。