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【無料掲載|インタビュー】ササオカユキオ通訳兼アシスタントマネージャー ~“シャーレ”と“銀の盾”を掲げた通訳~

20年から通訳兼アシスタントマネージャーとして活躍されたササオカユキオ氏がフットボール業界から離れることになった。今季の活動最終日、あの巨体はチームメイトに胴上げされて宙を舞った。ポルトガル語の通訳として、ジエゴ、カカ、エウシーニョを担当。ひとつの節目として、ユキオくんが過ごした3年間を振り返りたい。そして、新たな道を歩み始めたユキオくんにエールを贈る。
聞き手/柏原 敏 取材日/12月23日

【フットボールクラブで過ごした3年間】

――まずは徳島で過ごした3年間の振り返りと、来年以降について聞かせてください。
この業界は初めてでしたし、徳島県がどこなのかも実はちゃんとわかっていませんでした(笑)。仕事内容も生活も初めてで、すごく新鮮なことばかりでした。慣れてきた頃に辞めることになってしまったことは残念なのですが、すごくいい経験をできた3年間でした。
来年については、既に新しい職場で仕事も始まっています。家庭の事情も含め、生まれ育った群馬県に戻って一般企業で通訳の仕事をしています。

――在籍期間は、激動の3年間だったと思います。1年目はJ2優勝&J1昇格、2年目はクラブ2度目のJ1挑戦や新監督就任やJ2降格、3年目は超・過密日程や19戦無敗の猛追。その裏ではコロナ禍のトラブルにも見舞われました。何が最も印象に残っていますか?
やっぱり一番印象に残っているのはJ2優勝のシーズンです。“勝って当たり前”のような1年で気持ちが良かったです。それが自分にとっては初めてのシーズンだったので、当たり前のような気持ちになってしまっていました。翌年のJ1では勝つ試合をなかなか経験できなくなって、“これが現実か”と感じたのを覚えています。でも、優勝も昇格も、降格も、こんな短期間でこれだけの経験をできたのはすごいことだと感じています。

――通訳の経験は元々あったのですか?
通訳自体の経験はありました。なので言語面の不安はありませんでした。20年に担当したのはジエゴの通訳でしたが、ジエゴは来日から数年経っていましたし、生活に慣れていたこともあって通訳としての苦労はそれほどなかったです。アシスタントマネージャーも兼務していたので、どちらかと言えば1年目はアシスタントマネージャー業務の方が大変でした(笑)。特にホーム戦の時は練習後にやることが多くて大変でしたね。

――フットボールのバックグランドはあったのですか?
フットサルをずっとやっていたのでサッカーの知識がまったく無いわけではなかったです。それにサッカーも好きでよく観ていました。でも、それでもわからないことだらけではありました。特にサッカークラブがどういう活動をして、どんなリズムで1年を過ごしているのか。全然知りませんでした。アウェイの遠征についても、わからないことばかりでしたね。1年目はジエゴが夏頃から出場機会を増やしていきましたが、そこから自分も帯同するようになっていきました。遠征の移動は結構疲れましたね(苦笑)。いまは慣れましたが、乗り物が苦手で飛行機酔いとかもあったりして・・・。本当に初めてのことばかりで、アウェイ戦で前泊していることも知りませんでしたから。当日に行って試合をしてるのかなと思っていたこともあったので(笑)。加入するまで本当に素人でした。

――苦労や不安はありましたか?
最初は少しありましたけど、ジエゴを起用してもらえるようになるまでの間に結構時間があったんですよね。その時間が自分にとっては逆に良かったのかもしれません。チームとしての戦術も把握できましたし、勉強や準備をする時間にもなりました。

――記者は、ユキオくんが選手と一緒に外周を走るような時に2~3周目で追いつけなくなる光景で笑っていました。その光景が無くなると思うと寂しいです。
(笑)。そんなこともありましたね。これでも加入時と比べて10kgくらい減ってるんですよ。誰にも気付かれませんでした(笑)。

【担当した3名のブラジル人選手】

――通訳として共に過ごしたジエゴ、カカ、エウシーニョの3選手を振り返ってください。
共通して言えることは3人とも努力家でした。

ジエゴは、すごく真面目で起用してもらえなくてもスタンスを変えずに練習をやっていました。すごく努力をしていたと思います。たまには落ち込んでいる日もありましたけど、次の日には切り替えて練習に向き合ってました。落ち込んでもピッチでは見せないというか、その姿が印象的でした。だからステップアップできたのかもしれません。起用された試合でミスをしてしまって批判を受けていることもありましたけど、それでも前向きに続けられていました。その姿勢が鳥栖や柏に行くことにもつながったのかなと感じました。ブラジル代表級のスキルやテクニックを持っている選手かと言われるとそうではないかもしれません。でも、ずっと頑張っていましたし、やり続けられる選手でした。

カカは、他2選手と違って、初めて日本に来た選手でした。なので一緒に過ごした時間は一番長かったです。買い物から免許取得など、いろんな時間を過ごしました。年齢は少し離れていましたが、年齢の差を感じないというか、毎日ふざけ合っていましたし、すごく気が合いました。選手としてはカカも努力家で、才能や周囲からの期待に溺れることなく、努力を続けられるアスリートだったことが印象的でした。ピッチ外ではふざける選手ですが、ピッチに立つとスイッチが切り替わる選手でした。日本での生活に慣れて来るとプライベートで自分が呼び出される回数は減っていきましたけど、逆に嬉しかったですね。成長している感じがして(笑)。

エウシーニョも努力家でした。でも、始めは少し心配もありました。結構、不満も言うので(笑)。でも、それがスタンスだと気付いてからは安心しました。ネガティブなことは溜め込まずに吐き出して、逆にそれを自分のバネにしながら次の日につなげる選手だと気付きました。徳島に加入する以前、エウシーニョは大きな怪我を経験していましたよね。満了になって、無所属でブラジルに帰国して、諦めかけたこともあったそうです。でも、やっぱりサッカーをしたい気持ちは消えなくて、そんな時に徳島ヴォルティスがオファーを出してくれたって話をしていたのを覚えています。すごい選手ですよね。4月に加入して、1カ月ちょっとした頃にはメンバーに入り、気付けばスタメンで出場する主力になりました。才能も努力も全部を備えているアスリートだと思いました。そして、家族思いの選手なんですけど、その家族の存在も力になっていると感じていました。ただ、試合に出られるかどうかや、再び怪我をしないかという不安は毎日のように抱えていたと思います。シーズン最後までずっとそうでした。でも、最終的にシーズン最後まで試合に出場を続けられて、来季の契約更新もできたのを見て、自分自身のことのように嬉しかったです。

――通訳として、大切にしていた考え方はありますか?
言語をマスターできていたとしても、伝える相手を理解できていなければ成立しない仕事だと思っていました。伝える相手と過ごす時間も多い仕事です。いかに担当する選手を知るかどうかを大切にしていました。この人には、こう伝えた方がいいだろうとか。選手それぞれで微妙に伝えた方を変えるというか、その人に合う伝え方を意識していました。あとは自分のやり方として、同時通訳みたいに直ぐに訳していくのではなくて、例えば監督や選手の話をひと通り全部聞いて、整理して、カカならこういう伝え方をしようと考えながらやっていました。言語を知っているかどうかよりも「伝える人を意識して、どういう伝え方をすればいいか」を考えることが、通訳の仕事として大切なことなんじゃないかなって思っていました。

【異色な経歴×つながる未来】

――経歴が異色です。加入時のプレスリリースに“名前”と“生年月日”と“出身地”しか記載がなかった方も初めてです。熱心なファン・サポーターの方々はご存知かもしれませんが、あらためて徳島ヴォルティスで働く事になった経緯や過去の経歴を聞かせてください。
徳島に来る直前に働いていた仕事から転職を考えていました。そんな時に職場の後輩から「何をやってみたいのですか?」と聞かれて、「サッカーの通訳をやっている友人もいるし自分もやってみたいなぁ」って答えたんです。その後輩との会話の流れから徳島ヴォルティスが通訳を探していることを知ることになって、本当に偶然なんです。それがきっかけでクラブにアプローチをして、岡田さん(強化本部長)とつなげてもらうことができました。偶然ですけど岡田さんが群馬県出身の方なので、群馬県で面談をしてもらって加入することになりました。

――初めてその話を聞いた時は、多様性のあるクラブだなとあらためて思いました。何となく経験者優遇みたいな業界と思っていましたけど、チャレンジ精神を尊重するというか。
そういう意味でも岡田さんには感謝しています。多分、岡田さんじゃなかったら難しかっただろうなと感じています。

――岡田さんは「面白いやつが来るから」って言っていました。
(爆笑)。

――その会話をした時に、芸能関係の事務所に所属していたり、その他にも異色の経歴があることも聞きました。
ナベプロ(株式会社ワタナベエンターテインメント)に所属していたことがあります。所属することになった一番初めのきっかけは、18歳の時に「6秒動画」を撮ってネット上に適当に出していたことがあるんです。ある日、東京のテレビ局から連絡がきて「その動画をテレビの放送で流したい」という依頼があったんです。ビックリしたんですけど「どうぞどうぞ!」と返答しました。それから1~2週間後でしたかね。「テレビにも出てみませんか?」と言われて出演したんです。その時に刺激というか、新鮮さがあって。「またテレビに出たい!」。そんな風に思いました(笑)。馬鹿みたいな質問なんですけど、共演していた芸人の方々に「テレビに出るためにはどうしたらいいんですか?」って聞きました(笑)。そうしたら「お前は面白そうだから、とりあえずお笑い養成所に行ってみたら?」とアドバイスされました。「そんなんあるんすか!?」って感じで、ナベプロの養成所(WCS※ワタナベコメディスクール)に行ってみたんです。別に芸人になりたかったわけではないんですけど「テレビで仕事をしたい!」と思っていた流れで1年間お笑いの勉強をすることになりました。養成所を卒業するタイミングで2割程度しかナベプロには所属できないんですけど、自分はそのまま所属することになっちゃって(笑)。芸人をやりたかったわけではないんですけどね。

――フットボールクラブで言うとトップ昇格みたいなことですか?
(笑)。そうかもしれません。ちなみに『厚切りジェイソン』が半年先輩で、『ブルゾンちえみ』が半年後輩で、同期は『アンゴラ村長』でした。当時の『ブルゾンちえみ』は全然違うキャラクターでやっていましたけど、まさかあんなに売れるとは。ちなみに『厚切りジェイソン』は絶対に売れると思っていました。当時からあのスタイルでした。養成所のライブでも実際に観たことがあって、絶対に売れると確信しました。でも、自分自身はあまり上手くいかなくて、ナベプロは半年程で辞めました。

――そこからYouTuberの時代もありますが、別会社に所属していたのですね?
そうですね。ナベプロを退所して、次は芸能界ではなくてネット系の会社と契約しました。そこでYouTubeを始めました。内容はブラジルで流行っているものやブラジル料理などを日本人に観てもらったり体験してもらったりして、そのリアクションをブラジル人にも観てもらうみたいな動画をアップしていました。リアクション系動画という感じですかね。

――反響があったそうですね!
ありました。いまは更新していないので登録者数は減りましたけど、一番多い時で登録者数が30万人に届くかどうかまで伸びて、総再生数は2000万再生を超えていたと思います。

――じゃあ、Googleから盾も受け取りましたか?
はい! 銀色の盾(※登録者数10万人以上で受け取れる)。あの盾はどこに片付けたのかなぁ。わからないなぁ・・・(笑)。

――先日、M-1で優勝した『ウエストランド』が盾を持ってる人についてネタを披露していたばかりなので旬なネタです。
(笑)。

――「テレビに出たい!」。その一点突破から始まった道が、いろんなチャンスを掴むことにつながっていくストーリーがすごいですね。フットボール業界も「サッカーの通訳をしてみたい」の一言から徳島ヴォルティスまでつながったり。 努力なのか、運なのか、とにかくすごいです!
すごいと言うよりも、無責任ですよね(苦笑)。でも、言ってみなければ自分がこの世界で優勝を経験することはできませんでしたし、後悔はまったくありません。

――ちなみに、J2優勝した時はシャーレを掲げさせてもらいましたか?
はい! 写真も撮らせてもらいました。

―― 「“シャーレ”と“銀の盾”を掲げた通訳」。日本中を、世界中を探しても、一人じゃないですか?
確かに(笑)。

――これ、記事のタイトルにします。おもろい。
面白いと思います(笑)。

――ネタっぽく扱ってしまいましたが、こじつけではなくて本当に人が経験したことで無駄なことって何もないと思います。例えば、内部資料なので表に公開された物ではありませんが、ユキオくんが岡田さんから依頼を受けて、開幕前には選手やスタッフに説明するために『クラブの歴史を伝える映像』や、コロナ禍でリーグ戦が再開される時や残留や昇格を争うような時期には『チームを一丸させるためのモチベーション映像』を提供した話も小耳に挟んでいます。適材適所が活かされた瞬間だったと思います。
ありがたかったです。自分のしょーもない経歴を活かしてくれて嬉しかったです。完成した動画を流した時に、涙を流してくれた選手やスタッフがいたのを目にした時は、多分いいものが作れたのかもしれないと思えました。貴重な経験になりました。

――インタビュー記事終盤で、まとめの綺麗ごとみたいに聞こえてしまうかもしれませんが、多様性のあるクラブでユキオくんもJ2優勝や残留最後の頑張りなどに貢献していると取材しながら感じていました。
それが本当であれば嬉しいですね。徳島はいろんな魅力があると思いました。普通ではないとも思いました。プレースタイルもそうですし、スタッフも個性的な人しかいません。他のスタッフたちには、どの口で言ってるんやと言われそうですが(笑)。面白いクラブでした。

――新しい業界、新しい土地。何を得ましたか?
プロサッカークラブのバックグラウンドと言いますか、オフ・ザ・ピッチの部分も知れてすごく楽しかったです。貴重な経験になりました。そして、選手たちからも学びました。オフ・ザ・ピッチでは、選手たちも毎日いろんな不安を抱えていました。それは外国籍選手も日本人選手も同じです。プロサッカー選手だけど、やっぱりみんな普通の人間で、それでもピッチでは全員が頑張って結果を出してることにすごく感動させてもらいました。

――影響を受けた選手やスタッフはいますか?
通訳を担当した中で最も仲の良かった選手がカカで、一緒に過ごした時間は友人といるようでした。それはお互いにそうだったかもしれません。他には、ピーさん(中河昌彦GKコーチ)には特にお世話になりました。最初から自分と絡んでくれて、自分とチームが1日でも早く馴染むように働きかけてくれたと感謝しています。そして、チャンスをくれた岡田さんにも感謝しています。

【徳島県からゴール裏へ】

――徳島県の生活はいかがでしたか?
関東と比べると人口が少ないので、混雑があまり無いのは人混みが苦手な僕には合っていました(笑)。コロナ禍ということもありましたから。

悔しかったのは『丸池製麺所(板野町)』の“うどん”を食べられなかったことです。混雑が無いという話と矛盾しちゃうんですけど、丸池は本当に毎回混んでいました(笑)。全然行けなかったです。この3年間、仕事の合間を見つけて、ずっとチャレンジしてきたんです。でも、ずっと混んでいて、車も止められなくて。今年の最後は特にチャレンジしたんですよ。それでも無理でした(笑)。いつかまた挑戦したいです。

――記者も徳島県人なので人混みが少ないのは事実として認めますが、賑わいをみせる『阿波おどり』は体験して欲しかったですね。コロナ禍の中で試行錯誤しながら少しずつ再開されていますが、本来の雑多でグルーブ感のある『阿波おどり』は最高ですよ。
それも悔しいことのひとつです。以前勤めていた会社の上司も「徳島県の“阿波おどり”はすごい!」って言っていました。群馬県から足を運んでいましたから。自分もチームと一緒に、阿波おどりに参加してみたかったです。

――最後に、一言お願いします。
徳島ヴォルティス、徳島県の方々、ファン・サポーターの方々、本当に3年間ありがとうございました。こんな自分を大目に見てくれてありがとうございました。本当に徳島に残りたかったですし、ありがたいことに契約更新のオファーもいただいていました。でも、家族との生活を大切にしたくて更新しないことを決めました。

いずれにせよ徳島に来て本当に良かったと思っています。いろんな経験をさせてもらいました。いろんな人たちと出会わせてもらいました。感謝しています。ずっと応援を続けます。そして、関東圏のアウェイ戦は足を運べる距離なので、ゴール裏でサポーターたちと会える日を楽しみにしています。ありがとうございました。

――おっ!? ということは、お仕事の都合が付けば、例えばアウェイの群馬戦なんかはゴール裏に『ササオカ フォンテス ジョズエ ユキオ』がいる可能性は高いですか?
ありえます!

[ユキオくんへ]
Boa sorte.

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