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【PRIDE OF HIROSHIMA】藤井智也/また会える

広島で成果を出したい。でも、京都にも戻りたい。

プロとしての責任感と、学生としての郷愁と。

二つの思いの狭間に、藤井智也は揺れていた。

当初は、4月になれば京都で1人の学生に戻り、立命館大の仲間たちと大学生活最後のシーズンを戦うはずだった。授業をしっかりと受け、単位をとり、卒論のためにゼミも頑張り、そしてサッカーに打ちこむ。学生生活最後の1年を過ごしつつ、チャンスがあればサンフレッチェ広島でトレーニングや試合に挑む。そういう生活を考えていた。

全ては、新型コロナウイルスが狂わせた。

緊急事態宣言は県をまたいでの移動を事実上、禁止した。もちろん、あくまで「要請」レベルだったが、公的存在であるサンフレッチェ広島の選手として、行政の「要請」を無視することはできない。藤井はずっと広島で、サンフレッチェの寮で過ごさざるをえなかった。それでも、公式戦でプレーできているのであれば、まだ気持ちも救われるが、サッカーそのものを奪われた状態。しかもいつまでこの状況に耐えなければならないのか、それもわからない。21歳の学生に突然舞い込んだ試練は、耐えがたい苦しみとなった。

それでも、藤井はサッカーに集中しようと努力した。5月下旬に練習が再開されるまで、寮の周辺でできることを積み重ねた。再開が決まると、立命館大学の米田隆監督から「チャンスを得られるのなら、広島で頑張れ」と励まされ、「試合に出るんだ」と強い気持ちで立ち向かった。その結果、再開以降の全ての公式戦に出場。リーグ戦では横浜FC戦に先発し、勝利に貢献できた。

しかし、試合に出て力を見せるにつれ、相手の警戒も厳しくなっていく。スピードを警戒され、1人だけではなく2人、時には3人が彼を囲むようになった。スペースを消されてもなお、自分のプレーを発揮できるほど、まだ経験は積んでいない。高校時代は全くの無名選手であり、注目され始めたのは昨年、関西大学リーグでアシストキングに輝いてから。大学生レベルでは止められないスピードも、警戒してきたプロの公式戦では勝手が違う。

思ったようなプレーができない藤井は、やがて苛立ちを隠せなくなった。コーチたちと話し込む時間も長くなり、アドバイスをもらっても「吹っ切れた」感はない。「開き直りました」と言葉では言っても、実際のプレーで「開き直り」を表現できない。

トレーニングでずっと、クロスを打ち続ける。シュートも打つ。自身の課題はキックだともわかっている。やり続けるしかないともわかっている。それでも、結果に繋がらないことが苦しい。確固たる自分が持てないことが辛い。

若者はいつも、悩みに満ちている。これでいいのか。俺はやっていけるのか。未来への不安が悩みとなり、苦しみへと繋がる。苦境打破のために、いろんなものにすがろうともする。

どうして自分が使われているのだろう。

ついには、そこに思い至るようにもなった。

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