【SIGMACLUB9月号※立ち読み版】川辺駿/新8番は、広島ユースで創られた
ジュニアユース時代、アンカーの時代
ああ、無理だな。俺は無理だ。ジュニアユースにはいけないや。
小学6年の時、川辺駿は実感していた。
ジュニアユースとはもちろん、サンフレッチェ広島ジュニアユースのこと。槙野智章(現浦和)や森重真人(現FC東京)といった日本代表経験者だけでなく、田坂祐介(現千葉)や髙柳一誠(現沖縄SV)、茶島雄介といった錚々たるメンバーを輩出している。広島においては紛れもなく1番のプロへの近道だった。
「広島の中では1番強いチームだったし、ジュニアユースはみんなが目指すところだったんです。なので、当時のサッカー少年はみんな、セレクションを受けていたし、その上で入ることができれば凄いと言われるほどのチームだった。サンフレッチェのジュニアユースに入るというのは、広島で1番強いチームに入るという意味でも重要でした」
川辺は自分に自信がなかったわけではない。実際、技術では他に負けない自負はあったし、セレクションを受けた時もいいプレーができたという気持ちはあった。ただ、彼を悩ませたのは「ナショナルトレセンまで行けた選手じゃないとセレクションには受からない」という噂を聞いたからだ。
「俺は、中国トレセンまでしか、いけていない。きっと落ちたんだ」
根拠も何もない噂に、少年の心はゆれた。
セレクションには何百人ものサッカー少年たちが集っていた。トレセンで一緒にやっていた選手もいたし、顔も知らない選手もいた。そんな中で、ナショナルトレセンに行けていない自分が受かるとも思えなかった。
そんな傷心の少年に、一枚のハガキが届く。サンフレッチェ広島から「面接のご案内」という通知だった。それは事実上、セレクションの合格を意味していた。
「やったあ」
ハヤオ少年は素直に喜んだ。本当に嬉しかった。サッカーを始めて、プロになりたいと思って、そこで目の前に立ちはだかった最初の壁。そこを乗り越えたという実感が、新たな自信にも繋がった。
ジュニアユースの1年先輩に野津田岳人がいる。当時から「怪物」と評され、爆発的な左足を含む選手としての評価は、同世代でも突き抜けていた。
今では親友と呼べるくらいに仲がいい野津田と川辺だが、当時はほとんど接点がない。というのも、1年生は2〜3年生とは別の時間でトレーニングすることが多く、川辺が2年にあがった時、野津田はもう広島ユースで日常を過ごし、ジュニアユースの試合の時だけ戻ってくる状況。普通に会話はかわしていたが、今のような親密さはなかったという。
川辺が強烈なインパクトを与えたのは、3年生の時だ。フォーメーションは当時、4ー3ー3。浜下瑛(現徳島)と宮原和也(現名古屋)をインサイドハーフ、川辺をアンカーに配置したフォーメーションが美しく機能してボールを繋ぎ倒すスタイルで、CBには後に川辺・宮原とトップ昇格を果たす大谷尚輝(現町田)がいた。夏の日本クラブユース選手権ではベスト4。冬の高円宮杯U‐15は日本一も狙える。そんな期待もあった。
2010年12月23日、徳島で行われた高円宮杯U‐15全国大会2回戦。個人技の優れた選手を揃えた横浜FMジュニアユース追浜を、川辺を中心とした広島の少年たちは圧倒。先制を許しても慌てず、川辺の絶妙のパスから同点に追いつく。その後も広島がビッグチャンスを迎え、勝利は目の前に迫った。しかし、アディショナルタイム。DFのクリアボールが相手FWに当たって入るという不運。広島は、敗れた。川辺は泣いた。涙が止まらなかった。一方で、いつも厳しい存在だった沢田謙太郎ジュニアユース監督(当時)は、目を細めた。
「いい試合だったなあ。こういう試合で締めくくるのであれば、次に繋がるでしょう」
その言葉は、川辺にとっては現実となった。
10年たった今、当時をこう振り返る。
「めっちゃ楽しかった。2年の時に沢田監督になって、ボールを繋ぐサッカーになって。ポジションのバランスもよかった。スピードのあるドリブラーをウイングにおいて、前に点を取れる選手がいて、インサイドハーフとアンカーでゲームをつくる感じでした。マジで、パスを回しまくっていました。
僕は常にボールを受けて繋いで、たまに飛び出して、またボールを繋いで。マジでザ・アンカーみたいな感じの選手でした」
「俺のパスについてこい、みたいな」
そんな聞き方をしても、川辺は否定しない。「そうですね」と言って笑った。
「ちょこちょこと繋ぐけど、サイドが空いていたらパカーンと蹴って、ボールがウイングに渡ったら仕掛けてクロスしてゴールとか、そのままえぐってマイナスのパスからゴール、みたいなサッカーでしたね」
この時が実は、もっとも森﨑和幸に近いスタイルだったと記者個人は思う。ただ、まさか川辺が後に8番を受け継ぐことになるとは、想像もつかなかった。当時はバリバリのドリブラーだった宮原和也がストッパーになるなんて思いもしなかったことも含めて。
サッカーでプロを目指すに、最高の環境
川辺がユースに昇格する前年、広島ユースは2回目の高円宮杯優勝を果たしていた。
準決勝、雨の国立競技場で大島僚太(現川崎F)を中心とする静岡学園に圧倒され2点を先行され、主将・宗近慧(現YSCC横浜)も退場。1年生ながらチームの中心になっていた野津田岳人を発熱で欠くという絶対的不利な状況でも諦めず、砂川優太郎のハットトリックで4ー2と逆転勝利。
決勝でも武藤嘉紀(現ニューカッスル)がいたFC東京U‐18に先制されるも、野津田が起点となって越智翔太の2得点を生み出した。「逆転の広島ユース」を体現した形での優勝は、個人能力の総和での不利を団結力で覆した、実に高校生らしい栄光だった。
「ユースは日本で1番強い、レベルの高いチーム。プロになるためには、ここに入らなければ無理だ」と川辺は考えていた。だからこそ、「ユースに絶対に入る」が彼の絶対的な目標。人生の階段を登っていくことに夢中になっていた。
ユースでの生活に不安はなかった。むしろ、受験勉強から解放された喜びに満ちて、吉田町(現安芸高田市)に向かった。寮生活も不安はない。全寮制はサッカーにとって最高の環境だと思っていたし、周りのレベルの高さも、望むところ。プロチームが近くでトレーニングしていることもあり「プロになる上では何も言うことがない」(川辺)状況だった。
たとえ能力があったとしても、寮生活が合わずにドロップアウトしてしまった選手もいるが、川辺にはそういう心配もなかった。同期とはすぐに仲良くなり、ストレスもない。夜10時になると携帯を寮長に預けないといけないルールで、そこだけは「なんとかならないかな」と感じていたが、不満といえばそれくらい。それも「絶対に嫌だ」ではなかった。掃除や洗濯を自分でやる生活にもすぐに慣れ、それはいい習慣となって今も続く。
寮長や森山佳郎監督(当時)に怒られることもほとんどない優等生を演じた。
「いや、優等生とかではなくて、存在を消していました(笑)。怒られないように隠れていただけです。周りが怒られるのを見ていて、めちゃ怖いなあと思っていたので(笑)」
食事も全く問題ない。当時は身体も小さくて、食事の重要性を感じていた川辺は「いっぱい食べなきゃ」と思っていた。広島ユースは栄養講習なども行っており、身体を大きくするためには何が必要なのかという知識も、彼は身につけていた。
都会で暮らしてきた少年たちにとって、吉田町での生活はある意味、カルチャーショック。ゲームセンターもなければ、コンビニもまばら。自然は豊かだが、高校生が楽しいと思える場所は都会に比べれば少ない。しかし、そんな環境もインドア少年だった川辺は苦にならなかった。
「遊ぶ場所はなかったです(笑)。でもオフの時には寮の隣の人工芝でサッカーをみんなでやっていました。ファミレスとか、行っていましたね」
サッカーをやるために、ここに来た。プロになるためのステップとして、広島ユースに入った。コンビニがどうとか、遊ぶ場所とか、川辺には必要なかった。彼が入ったのは、前年に高校日本一になったチームである。サッカー以外、何をやるべきことがあるのか。
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