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【THIS IS FOOTBALL】内田篤人、引退。

2008年1月1日、国立競技場。快晴だった。元日の青空は、広島のためにあると思っていた。

前年の12月8日、広島は京都との入れ替え戦に勝てず、J2降格が決まった。それでも広島はミハイロ・ペトロヴィッチ監督を交代させず、来季の指揮も任せると決断。轟然とした批判や非難がクラブに襲いかかった。今でこそJ2 降格=監督交代ではないが、当時はシーズン当初から指揮をとった監督が辞めないという事態はありえない。それほどの決断だったわけで、批判をうけないはずもない。実際、天皇杯5回戦の磐田戦では、状況次第で何が起きるかわからない不穏な空気もあった。

「天皇杯で結果を出し、サポーターの信頼を取り戻せ」

選手も監督もスタッフも、ここで一丸となった。もちろん、遅かったかもしれない。それでもクラブが一つになって戦ったことで、奇跡は起きかけていた。磐田戦では歴史的といっていい森﨑浩司の2FKゴールが生まれ、「こんなサッカーをリーグ戦でもやっていたら広島の降格はなかった」と川口能活が言うほどの完勝。熊本の地でFC東京を相手に2−0と勝利し、当時熊本でプレーしていた高橋泰に「どうして降格したんですか。強いじゃないですか」と言わしめた。準決勝ではリーグ戦3位のG大阪に対して3-1。その力強い戦いに、「J2降格が決まったチームが天皇杯で優勝する」というドラマが本当に起きるのではないかと思っていた。クラブも東京都内のホテルで祝勝会の準備をしていたし、勝利を、優勝を疑わなかった。

その空気をあっという間に吹き飛ばしたのは、19歳の若者。プロ2年目で日本代表候補にもなった内田篤人が開始8分、強烈なシュートを広島ゴールに突き刺したのだ。その年、J1王者に輝いた鹿島の主軸右サイドバックとはいえ、彼にはここまでゴールはなかった。なのにこの大舞台で、角度もない難しいゴールを簡単に決めてしまうとは。内田が決めた最初で最後の天皇杯ゴールが広島の夢を打ち砕き、鹿島にこの年二つ目のタイトルをもたらした。2008年元日の青空は、広島ではなく、内田篤人のためにあったのだ。

ただ、彼のことが気になったのは、このゴールがスタートではない。1999年から全ての広島の試合(1999年アウェイのヤマザキナビスコカップ仙台戦を除く)を見てきた記者にとって、どれほどたくさんの失点を見てきたか。確かに内田のゴールは印象的ではあったが、2007年シーズンでいえばやはり、京都との入れ替え戦での田原豊のゴールが忘れられない。記者が内田篤人という存在を強く意識するようになったのは、サッカーではなかった。

2013年、シャルケでプレーしていた内田の記事を何気なく読む。驚いた。彼が吉田拓郎の曲を聴いているというのだ。

昔から記事を読んで頂いている読者の方にとって、記者にとって吉田拓郎がどういう存在か、わかって頂けていると思う。控えめにいって、神様だ。全てを肯定しているわけでもなく、全ての曲が好きなわけでもないが、それでも拓郎の存在なくして、自分の今の立ち位置はない。そのことはまた、違うところで語ろうと思うが、その拓郎の曲を当時25歳の内田篤人が聞き込んでいるという。

衝撃を受けた。1988年生まれの内田にとって吉田拓郎は、歴史の一部であるはず。Jポップという分野があるとするならば、そのパイオニア的な存在。テレビに出ないでスーパースターにのぼりつめた初めてのシンガーであり、本格的な全国ツアーを発想した人物であり、1970年代につま恋や篠島で行われたオールナイトコンサートは当時の若者を興奮のるつぼに巻き込んだ。だが、2013年の段階では以前に患った肺がんの影響で全国ツアーからも身を引いた状態。当時67歳のミュージシャンに20代の日本代表選手が興味を持ってくれるなど、思いもしなかった。

しかも聞き込んでいる曲が「外は白い雪の夜」だという。「歌詞がいいんです」と彼は語っていた。

この曲は拓郎のファンなら知らない人はいない名曲。シングルではB面だったが、A面だった「春を待つ手紙」(これも名曲)よりも遙かにコンサートで歌われ、その度に聴衆の涙を誘ってきた。松本隆の描く繊細でドラマティックな男女の別れを拓郎が硬質なバラードに仕上げた珠玉の作品。1994年、唯一の出演となった紅白歌合戦で日野皓正や渡辺香津美、日野元彦や大西順子といったジャズ界のスーパースターたちと競演して歌ったのも、この「外は白い雪の夜」だった。

とはいえ、一般的にこの曲は拓郎の「ヒット曲」として知られているわけではない。なのに、彼がこの曲を知り、聞き込んでいるという。恋愛の曲も別れの曲もたくさん聞いていただろう若き日の内田篤人が、ドイツでこの曲を好きになってくれたという事実が、「最後の拓郎世代」を自負している記者の心を揺さぶった。

それ以降、彼の言葉がメディアに掲載されれば、常に読むようにしていた。優しくて甘いルックスの裏に潜む強さ、優しさのベールに包まれた骨太の思い。本物の香りが常に漂った。プレーを常にチェックしていたわけではないが、もちろん質の高さも理解していたし、どんな時であっても全力で闘い抜く姿勢にぶれがないのも「凄い」と感じていた。そしてドイツの1部でレギュラーを張り続け、チャンピオンズリーグでベスト4に進出した男が「日本に復帰するなら鹿島以外には考えられない」。鹿島アントラーズとは、こういう選手を常に育て上げるのか。憧憬と嫉妬にまみれた複雑な思いが、彼を見ると胸を締め付けた。

鹿島に戻ってきた内田についても、たくさんのことを知っているわけではない。試合になれば、1人の偉大なる右サイドバックであり、対戦相手。研究対象であり、試合に出ないとケガのことについて気になりはしたが、「広島にとっては脅威が減る」と身びいきな思いに終始した。引退試合も広島戦を見るこことが先決であり、彼の最後のプレーはまだ見ていない。

もちろん彼が最後に語った言葉は読んだ。全ての言葉に内田篤人らしさが散りばめられ、優しさと愛情と強い意志を感じさせた。

さすがだな。

だが、そんな言葉よりもさらに強烈な映像を、Twitterで見た。

0-1、アディショナルタイム。リードしていたG大阪は鹿島の右サイドで時間を使おうとしていた。内田はアデミウソンからレオ・シルバと共にボールを奪い、前へと蹴り出す。その後、内田はタッチライン上に思わず膝をつき、立てなくなった。ボロボロの膝が限界に達していたのは、見るだけでわかる。あの内田篤人が、広島目線で言えば常に嫌な存在であり続けたタフな男が、7 秒間、立てなかった。必死に両足でカシマスタジアムの芝を踏みしめても、両手をももに当てていた。立つのがやっと。だがG大阪からボールを奪い、スローインを投げた後、走れないはずの男がスピードをあげる。ハーフラインを超えた。止まった。逆サイドを見た。テーピングがグルグルと巻かれた右足で正確無比なサイドチェンジ。

ヒーローのボールを無駄にするな。

そんな意志で統一された鹿島はこのボールを大切に保ち、犬飼智也の劇的な同点ゴールに結び付けた。

その瞬間、少しだけガッツポーズを見せた英雄は、そのまま淡々と自陣に戻る。鹿島らしい、まさに鹿島らしい。そして内田篤人らしい。最後まで勝利を追いかけるために、必要なことをやる。鹿島のスタイルに憧れはないが、常に勝利を追い求める貪欲さはいつもながら凄い。その象徴こそ、背番号2だった。

最後の最後まで、内田篤人は真剣勝負と共にあり、勝利のために走った。その姿を見た時、彼について何か一つ、書きたくなってしまった。内田篤人のファンのみなさま、申し訳ありません。正直、それほどプレーは見ていない。だけど、そういう人間に対しても何かを伝えうる存在だったことは間違いない。

12年前の1月1日、国立競技場の青空は内田篤人のためにあった。そして8月23日、カシマスタジアムの夜空もまた、内田篤人のために広がっていた。12年前は悔しくて仕方がなかった。だが何度も繰り返して言いたくなる「偉大」な男の若き日にやられたというのであれば、しかたない。そう考えながら、8月23日に見せた背番号2のサイドチェンジを、ただただ見ている。

(了)

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