縦に紡ぎし湘南の

【コラム】大多和亮介副社長ロングインタビュー①これまでの歩み

湘南ベルマーレと大和シルフィードが提携して1年が経過しました。そこで、シルフィードの代表取締役社長を務め、ベルマーレの副社長を兼務する大多和亮介さんにロングインタビュー。かつて横浜F・マリノスのフロントスタッフとして辣腕を振るい、その後女子サッカーに身を投じたこれまでのキャリアを辿りながら、現在の取り組みや自身の想い、そして両クラブの未来について、じっくりとお聞きしました。第1回は「これまでの歩み」。(全5回)

――大多和さんはどのような経緯でサッカー界に入られたのですか?
「アテネオリンピックが開催された2004年、私は大学4年生でスポーツビジネスを専攻していたので、オリンピック組織委員会のお仕事の視察や勉強という目的で、現地に1カ月ぐらい滞在したんです。その間、いろんな競技を見まくっていたなかで、平泳ぎの100mの会場に潜り込めて、目の前で北島康介選手が金メダルを獲得した。彼は同じ高校の同級生なんです。私自身は当時、就活は終わっていて内定もいくつかいただいていたんですけど、康介選手が金メダルを取る姿を目の当たりにして、自分はせっかくスポーツビジネスを学んできたのに向こう側には行かないのか、このままでいいんだろうかと思ったんですね」

――向こう側とは?
「観客席で見ている私に対して、目の前にはメダルを懸けて戦うアスリートと、その場をつくっているひとたちがいる。もともとは自分もこういう空間をつくる仕事がしたくて大学に行ったのに、向こう側ではなく一般企業に就職しようとしていることに疑問を抱いたんです。そこで思い直し、卒業して大学院の門を叩いて、2年間あらためて勉強したのちに新卒で横浜F・マリノスに入りました」

――学生時代はアルペンスキーをやられていたそうですね。それがなぜサッカーだったのですか?
「アルペンスキーを例に挙げると、日本ではたとえばインカレのチャンピオンになっても選手がプロとして生活していくのはとても難しくて、その先競技を続けること自体が難しい。でもヨーロッパでは1億円プレイヤーがゴロゴロいるような超花形競技なんですよ。もちろん文化的背景も歴史も違うなかで急にヨーロッパのようになるのは無理だけど、この日本でもなんとかできないものか、アルペンスキーに限らずマイナー競技や企業スポーツが次の日本でどうすれば自立、発展していけるか。大学院ではそんなことを研究対象にしていました。ちょうど世の中的には企業がスポーツチームを手放し始め、廃部や休部の波が押し寄せていた頃でもありました。でも結局は、プロリーグでも、マイナー競技でも、企業とスポーツの関係性であったり、スポーツ側がどんな価値を提供できるのかという観点に行き着くなかで、JリーグやJクラブが様々なチャレンジをしていた。そこで大学院の2年からインターンシップの形でマリノスにお世話になることになりました。
大学院を卒業したあとは、スポーツと企業を繋ぐ、企業スポーツをコンサルティングする立場としてシンクタンクに行きたいなと思っていた時期もあったんです。でもJクラブの現場を見れば見るほど、コンテンツ側のことを知らずにコンサルもなにもないなと。まずはコンテンツのほうから始めようと、卒業後もそのままマリノスにお世話になることになった。たぶんマリノスでは初めての新卒採用だったと思います」

――マリノスではどんな業務を行なっていたのですか?
「運営も企画も広報も、あらゆる仕事をやらせてもらいました。家業で離れた時期もありましたが、2016年の途中にふたたびマリノスに復帰しました」

――家業とは?
「母方の実家が運営している幼稚園です」

――いまの仕事からは少し離れているように思えますね。
「そのときは、昼間は幼稚園で働き、夜は横浜国立大の大学院に3年間通って、特別支援教育や臨床発達心理などを勉強しました。それがいまの仕事に直接的に活きることはないですけど、女子サッカーの世界はジェンダーや人権に向き合う機会が多いので、そうした社会課題と女子サッカーを通じて向き合っていく土台として、当時の経験はいまでもものすごく活きていると思っています」

――きちんと学ぶ姿勢が印象的です。
「幼稚園でも毎日楽しく働いていたんですよ。ただ、あるとき子どもとの関わり合いのなかですごく反省することがあって。あとになって、そのお子さんが発達障がい児で、個別の支援が必要だったことが分かった。そこで自分の無知を思い知り、これはいかんと思っていちから学んだ。自分にとってその原体験はけっこう大きかったです」

――しかし、なかなか新しいことを学ぶために大学院まで入らないですよね。
「たぶんサッカークラブで使っていたエネルギーが有り余っていたんでしょうね(笑)。ありとあらゆる仕事をやらせてもらい、ほんとに楽しくて、朝から晩まで働いていましたから」

reported by 隈元大吾

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