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【清水航平選手の引退に贈る】清水航平/4年間の雌伏

清水航平選手が引退を発表した。

2008年、インターハイ得点王という肩書きをひっさげ、東海大五高から広島に加入。その年の10月25日、J2第41節鳥栖戦で公式戦初出場初ゴールを決め、幸先のいいデビューを飾った。

だがその後、加入4年間はほとんど実績を残せず。2011年オフには出場機会を求めて移籍の噂もあった。たが2012年、森保一新監督就任が彼の運命を変える。

これからご紹介するドキュメントは、SIGMACLUB2012年10月号に掲載した清水航平の物語。運命を変えた1年の物語である。

彼の引退に際し、このドキュメントを読者の皆さまにご紹介したい。

清水航平選手、本当にお疲れさまでした。

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衝撃的なJ2初出場初得点以降、

清水航平はずっと、雌伏の時を過ごした。

何度か起用されたこともあったが

自らのプレーはできず。

クラブを去らねばならないのかという

危機感にも襲われた。

そんな男が今季、チームの危機を救った。

雌伏の時は終わりを告げ、

清水航平は勇躍の日を迎えたのだ。

 

 

左サイドには航平がいる

 

 宮崎キャンプ当時、広島を見に来たジャーナリストは、口々に言い合っていた。

 「選手層が薄い。特に左サイドがね」

 服部公太がチームを去り、実績のある左サイドが山岸智以外はいなくなった。新加入の韓国五輪代表=ファン・ソッコは、CB。ワイドを担当するにしても右サイドだろうと思われていた。イ・デホンは高卒ルーキー。潜在的な能力は高いが、それを発揮する術を身に付けるのはまだこれから。森脇良太が左サイドでプレーした経験はあるが、彼はCBのレギュラー。

「闘える」左サイドは山岸しかいないというのが、と当時の評価。そこに清水航平の名前をあげる記者は、ほとんどいなかった。

 クラブとしても、左サイドの補強に動こうとした。外国人選手を招請し、キャンプ中の練習試合で起用したこともある。だが、彼のプレーを観察した結果、クラブは獲得に踏み切らなかった。

 その決断の前、記者団から「左サイドの選手は、獲得の方向ですか?」と質問され、監督は「うーん」と首を捻りながら、こう語った。

 「左サイドには、ヤマ(山岸)も(清水)航平もいますからね。航平はずっと、いいパフォーマンスを見せてくれていますし」

 この言葉は、それほど大きくメディアに取り上げられていたわけではない。しかし、監督のメッセージは確実に清水の耳へと届いた。

 「僕のような、あまり試合に出ていない選手にも、監督は期待をかけてくれている」

 嬉しさが、胸をついた。

 

眠れない日々

 

 過去4年間、J2でのデビューゴールを除き、清水はほとんど実績を残せていない。J1での実績は、わずか5試合。昨年はリーグ戦では1度も起用されず、カップ戦でわずか1試合、途中出場したのみ。6月5日の対川崎F戦、右サイドで出場した後に同点ゴールを自らのサイドから叩きこまれ、ペトロヴィッチ監督(現浦和)の信頼を完全に失った。

 「試合に絡める雰囲気もなかった」

 清水の言葉どおり、紅白戦には参加していても、彼を抜擢しようという空気はなかった。左サイドは山岸で固定され、彼が不在の時も森脇良太を左サイドにあげるという対処療法で乗り切り、清水には声がかからなかった。若者たちの練習試合にも指揮官の姿はなく、「自分は期待されていない」と実感した。

 4年間で9試合出場。昨年実績はリーグ戦出場0試合。ベンチに入ったことすら2試合しかなく、天皇杯での出場もなかった。信頼はゼロに近い。チャンスもまた、ゼロに近い。

 「眠れない日々もありました」

 清水の回顧である。

 「3年目、マル(丸谷)や(横竹)翔の同期二人が、試合に使われるようになった。でも、僕だけは違った」

 デビューはむしろ、清水の方が先だった。だが、先んじたと思ったはずの同期は、いつの間にか先を歩いている。自分は、どうなんだ。

 そう感じた時、清水は眠れなくなった。

 「寝なきゃ、と思えば思うほど、眠れなくなった。サッカーから離れれば、と思って遊んだこともあったけれど、変わらない。高校の時の友だちに電話してみたり、サッカーのDVDを見てみたり。いろんなことをやってみました。でも、自分に対する不安を拭うことは、できませんでした。

 練習でも、自分はやってきたと思ったんだけど、実際にはアピールできていなかった。今、思い返せば、マルの取り組み方には見習うべきことが多かったんです。僕は練習が終わると『さあ、明日も頑張るか』みたいな感じになる。でもマルは、練習が終わった後もまた、練習する。そしてもちろん、次の日も頑張る。あいつは、本当にすごい」

 いつか同期の3人で、試合に出たい。それは今も、清水が抱える夢だ。だが、その前に、自分が広島を去らねばならなくなるのでは。

 そんな予感は、間違いなく、清水の中にあった。

 

広島で活躍したい

 

 「環境を変えざるをえないのか、とも思った。チームを出るしかないのかな、と。

 本当は、広島で試合に出ることが自分にとってのベストチョイスだと思っていました。試合に出ていなかったけれど、広島を選んだことに後悔はなかったし、広島で成功しないとよそに行っても通用しないとも思っていたんです。

 この4年の間にはもちろん、外に出てキャリアを積んだり、試合に出るチャンスのあるチームに移籍することも考えたことはあります。でも、僕がプロの世界に入ったのは広島だったし、だからまず、ここで成功したいという強い気持ちは、自分の中にありました。

 だから、移籍とか次のこととか、本当に広島でプレーできなくなった(ゼロ提示なども含め)時に初めて考えよう、と。自分を広島に残してくれる限りは、しっかりとやりぬきたかった。僕は、広島でサッカーがしたかったから」

 しかし、彼自身がそう考えたとしても、クラブがどう判断するか。過去の事例を見れば、高卒ルーキーは3年間である程度の判断が下される場合が多い。それは、広島に限らずどのJクラブを見ても。

 クラブの判断は、清水に「もう1年、期待する」ということ。もちろん、李忠成やムジリ、服部の移籍によってアタッカーや左サイドをできる選手が手薄になったことが、判断材料の一つにはなった。だがそれでも、クラブが清水の中に可能性を見いだしていなかったのならば、違う判断になっていただろう。

 今のクラブには希少なドリブルで仕掛けられること。シュート力を持っていること。サイドもシャドーもできるユーティリティ性。クラブは、彼の中に「化ける要素」を見極め、チームに必要と判断して、2012年の契約について彼にオファーした。

 嬉しかった。さらにペトロヴィッチ監督が退団し、森保新監督が就任することも、清水にとってはポジティブな材料となった。

 「ミシャ(ペトロヴィッチ監督)は、僕にとって1年目から試合に使ってくれた監督でした。チャンスも少なからず与えてもらっていたし、それで結果を出せなかった自分が悪い。

 一方で、試合に出ることが難しいと感じさせてくれたのも、ミシャだった。悔しい年月を重ねてきたけれど、それが自分を成長させてくれたことも間違いない。浦和戦の時、ロッカールームにミシャが来てくれて、声もかけてくれた。嬉しかったですね」

 前監督への感謝の想いを、清水は口にする。しかし一方で、もし監督が変わらなかったら、チャンスを与えられていたかどうか。それよりも、新監督就任により評価が一度フラットになる環境が、清水に勇気を与えた。しかも、その監督が「森保一」だったことも。

 シーズンオフ、森保新監督は他の選手たちにそうしたように、清水の携帯電話にも連絡をとった。

 「一緒に闘おう」。

 新指揮官は、清水の現状を知っていた。それでも、彼を必要な戦力だと認め、奮起を促した。

 「監督がまだ広島のコーチだった頃から、僕をずっと見てくれていた。あの当時は、紅白戦から外れた僕とマンツーマンで練習する機会も多かったし、たくさん声もかけてくれていたんです。

 2年目あたり、僕がちょっと投げやりになって、ポイチさんに感情をぶつけてしまったこともあります。それでも僕のことを投げ出さず、ずっと声をかけてくれていた。そんなポイチさんが監督になって、僕を広島に残してくれたんです。そうでなければ、僕は他のチームを探すことになったのかもしれない。

 本当にありがたかった。監督に恩返しするためにも、僕はやるべきことをやらないといけない。そういう意味でも、僕は結果が欲しかった」

 

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