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【不定期連載〜サンフレッチェ広島と僕の私的な30年】日本サッカーに興味がなかった32年前※初回無料

初めて「サンフレッチェ広島」という存在を知ったのは、1991年のこと。世の中が酔いしれていたバブル景気が前年から始まった金融引き締め策によって終焉をむかえ、いわゆる「バブル崩壊」が始まった。また、ソビエト連邦が崩壊し、世界的にも新時代に入った年だった。

この年の1月23日、マツダが正式にJリーグ参加を表明。財政的な理由からサッカーのプロリーグ参加を見送ろうとしていた同社に対し、広島のサッカーファンが声をあげ、当時の広島県知事だった竹下虎之助氏と古田徳昌マツダ社長(後のサンフレッチェ広島初代社長)が会談した結果、Jリーグの設立メンバーとして名乗りをあげることとなった。そして11月にはスタッフ4人で設立準備室が設けられ、旧広島県立美術館のロビーを借りる形でサンフレッチェ広島は事実上の産声をあげたのである。

ただ、その経緯を詳しく知ったのは、サンフレッチェ広島を取材し始めた後のことだ。当時の認識としては、「へー、サッカーがプロになるんだ。大丈夫かな」程度のこと。1978年のワールドカップ決勝・アルゼンチン対オランダ戦をNHKで見て「なんて凄い世界があるんだ」と感銘を受けたのが、僕とサッカーとの出会いだったけれど、「じゃあ日本のサッカーは」と日本サッカーリーグの中継を見た時に愕然。サッカーのレベルの違いは素人目にも明白だったのだが、それ以上にスタンドのガラガラ感がとても気になって、観戦に集中できなかった。

そんな状況だったのに、プロ化して本当に大丈夫なのかな。

正直、そう思っていた。

というか、日本のサッカーに対する興味は、ほぼゼロに近かった。ワールドカップは確かに楽しみだったが、「ダイヤモンドサッカー」のように海外のサッカーを紹介するテレビ番組は広島ではなかったし、一方で仕事が忙しすぎて、野球とかサッカーとかを楽しむ時間的余裕もなかった。

1991年の自分といえば、結婚して3年目。長男も次男も生まれていて、自分の人生設計をどうしようか、考えていた時期だった。この前年、リクルートの子会社として設立された中四国リクルート企画の設立メンバーとなり、28歳にして初めて「会社員」になった。残業続きで、毎日午前様だった自分の仕事スタイルを見直し、定時で家に帰って、家で仕事をし始めた頃だった。

当時は、会社の広告制作チームのリーダーをやっていて、コピーライターやディレクターの業務も同時並行。広告の打ち合わせはほとんど電話とFAXで行い、原稿は全て家で書いた。会社では成績の悪い営業マンと話をして戦略を煮詰め、同行営業で新規顧客を獲得する仕事に時間を費やした。これは上司に言われたことではなく、自分で考えて、やっていたこと。最初は制作リーダーが営業と絡むことに苦虫をかみつぶしていた人もいたが、結果を出すことで見方を変えさせようとした。

そういう仕事スタイルに変えたのは、妻のメンタルのためでもあった。広島に友人がいなかった彼女は、育児などの悩み、苦しみを相談できる存在は僕しかいない。だったら、できるだけ側にいてやりたいと思ったのだ。マネジャーになり、残業手当がなくなった一方で基本給があがったことも、この仕事スタイルを続けようと考えた理由ではある。

原稿を書く仕事は、パソコンがあればどこでもできる。当初は東芝のダイナブック、1990年にマッキントッシュクラシックが発売されるとすぐに食いつき、家にMACを置いて、EGwordという当時のMAC用のワープロソフトで原稿を書きまくった。近くに妻がいて、笑っていてくれることで、僕のメンタルも落ち着いた。会社で原稿を書くよりも、はるかにはかどった。こういうスタイルを容認してくれた当時の上司や同僚には深く感謝しているし、当時の仕事がなかったら自分の今は、どうなっていたことか。

いずれにしても当時の僕は、家族と仕事のことしかほとんど興味はなく、あれほど好きだった野球も新聞で結果を追うくらい。まして、サッカーのことなんて、ほぼ眼中になかった。1日24時間、スポーツに割く時間などほとんどなかった。

ただ、1994年に広島でアジア大会が開催されることは知っていた。

アジアのスポーツの祭典が広島のような地方都市で開催されるなんて、滅多にあることではない。そう考えた僕は翌年の春、アジア大会の準備室(正式名称は覚えていない)のようなところにアポイントをとった。アルバイトやボランティアなどの人材募集広告で仕事にならないかなと思ったからだ。

訪問してみると、人材募集はしているが、そこに広告を割く予算はないとのこと。まあ、公的な組織だし、行ってすぐに仕事になるとも思っていなかった。ただ、情報はしっかりと聞き出し、これからの展開が有望なら本格的に上司に相談しようと思った。

そこで話題になったのは、秋に行われるサッカーのアジアカップのこと。この大会はアジア大会のプレ大会としても位置づけられていて、その担当者もアジアカップの仕事を抱えていた。

「サッカーの国際大会って、人気はどうなんですかね」

僕の質問に、担当者は苦笑い。

「まあ、あんまり期待はできないと思いますよ。サッカーって人気ないし」

「そうですよね」

「まあ、あの大会がアジア大会のメイン会場となる広島ビッグアーチ(当時はこういう呼称だったかどうかは覚えていない。便宜上、この名前にさせてください)のこけら落としになるので、そこはしっかりとやりたいですね」

この時初めて、広島市に5万人規模のスタジアムが出来ていることを知った。そしてその後、数えきれないほど広島ビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)に通うことになる運命が待っているとは、当然、知る由もない。

今、考えてみれば、この時が僕と「サッカー」との関わりのスタートだったのかもしれない。アジアカップが広島で行われるということを聞いて、それまで無関心だった日本のサッカーに興味が出てきたからだ。当初は「本当に日本サッカーが5万人規模のスタジアムを埋められるのだろうか」という懐疑的なもの。だがそこから次第に、僕の認識が変わっていったのも、事実だったのだ。

 

(続く)

 

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