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天皇杯で闘ってきた広島の歴史。その歴史を塗り変える時が来た。

天皇杯の歴史

天皇杯本大会に最も出場しているクラブはどこか。

答えは広島だ。今季で71回目の出場となる。もちろん、前身の東洋工業蹴球部時代から数えてのことだ。

天皇杯は、3大タイトルの中で最も歴史のある大会である。1919年、FA(イングランドサッカー協会)から銀製のFAカップを寄贈されたことをきっかけとして、サッカーの全国大会開催の機運が高まり、1921年に「ア式蹴球全國優勝競技會」という名称で初の全日本選手権が行われた。

「ア式」とは「アソシエーション式」の略で、イングランドでは1863年、ラグビー派との分裂という痛みのあとにFAが統一ルールを完成。このルールのもとに行われる競技を「協会式フットボール」(Association Football)と呼ばれるようになり、その省略した呼び方だったsocに人を意味する「er」をつけてSoccerと呼ばれるようになった。ただ、サッカーは日本やアメリカなどでの呼称であり、イングランドを含む多くの国々では「フットボール」と呼ばれている。

当初、サッカーの全国選手権に贈られたのはFAカップだったが、このトロフィーは戦時中の強制供出のために国家に差し出され、現存していない。そして1947年、昭和天皇が東西対抗戦を観戦されたことをきっかけとして、翌年には日本サッカー協会(JFA)が宮内庁から天皇杯を拝受。1951年から全日本選手権優勝チームに贈呈されるようになった。

前身を含めれば最も決勝に進出しているチーム

サンフレッチェ広島の前身である東洋工業蹴球部は、1938年の創立。1948年には実業団のチームとして初めて全日本選手権に出場した。

それまでは例えば第一回の優勝チームが「東京蹴球団」という社会人のクラブチームだったように、「クラブ」がサッカー界を牽引していた。広島も同様で1924年、初めて広島のチームとして優勝を果たしたのは広島一中鯉城クラブ。広島一中とは現在の国泰寺高校で、そのOBたちによって結成されたのが、このクラブだ。

その後、サッカーを牽引するのはクラブから大学生のサッカー部になっていったが、戦後は少しずつ実業団のサッカー部に主役が移行。1954年、東洋工業が実業団チームとして初めて決勝進出(決勝は慶應大ソッカー部OBを中心とするクラブチーム「慶應BRB」に延長戦の末、敗れた)、1960年には古河電工(現ジェフ千葉)が実業団初の優勝を成し遂げた。

そして1965年、第1回日本サッカーリーグ(JSL)で優勝したそのシーズン、天皇杯でも決勝3度目の出場で初めての優勝を飾った。

以降は東洋工業の黄金期。JSLでは1968年まで4連覇。天皇杯でも、1965・1967・1969年と3度の優勝を記録し、準優勝も1回。日本代表の共通語が広島弁だったという黄金期をつくったが、この1969年の優勝が、広島勢最後の栄冠となった。

以降、東洋工業時代には1970年・1978年、1987年はマツダSCとして、そして1995年・1996年・1999年・2007年・2013年とサンフレッチェ広島として5度の決勝進出を成し遂げている。決勝進出回数は今季を除いて14回を数えて最多。だが決勝の成績は3勝11敗で、準優勝の回数もダントツで最多となっている。

Jクラブというカテゴリーでの決勝進出回数でも鹿島(8回)、G大阪(7回)についで第3位。昨年までは浦和や清水と5回で並んでいたが、今季の快挙で単独3位となった。

決勝、その闘いの歴史〜1995年・1996年

決勝で勝てないという歴史ばかりが取り上げられがちだが、そもそも決勝に出ること自体が素晴らしいこと。実際、ヨーロッパでは決勝進出チームは「ファイナリスト」とよばれ、たとえ敗れても優勝チームと同様に祝福を受ける。今回で15回目となる決勝進出は、広島の誇るべき記録として胸を張っていい。

ただ、「ここまで来たら勝ちたい」と塩谷司をはじめとして多くの選手たちが語っているように、2位よりも1位の方がいいのも明快だ。では、どうしてここまで勝てなかったのか。

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