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【SIGMACLUB7月号】足立修と森﨑和幸、 青山敏弘を見つめてきた男たちのメッセージ

サイドチェンジに見た若き才能

 

あれは2003年7月12日、岡山県美作サッカー場での出来事。もう18年も前のことになる。

この日、サンフレッチェ広島は美作夏季ミニキャンプの最終日を迎えていた。J1復帰を目指して戦っていたチームは春先から快進撃。開幕から11試合連続無敗、10連勝と無人の野をいくが如くの戦いぶりを見せていた。

だが、第12節で川崎Fに初敗戦を喫すると進撃はストップ。駒野友一・森﨑浩司・高橋泰・沢田謙太郎ら実績を持つ選手たちが次々と負傷離脱し、チーム戦績も下降していった。キャンプ直前には甲府でのアウェイ戦に敗れ、まだ首位を確保していたが、2位新潟に勝点5差。最大12ポイントもあった両チームとの差が、一気に詰まってきた。だが、そこから夏場、さらに事態は切迫することになるのだが、その歴史はまた次の機会へ。

このキャンプに参加していた1人の高校生が、紅白戦にも出場した。おそらく、獲得に向けての最終チェック的な色合い。そしてこの高校生=青山敏弘の1本のキックが、その後の彼の、いや広島の運命を決めたと言っていい。

彼は後半から白組のボランチで出場。コンビを組んだのはベテラン・桑原裕義だ。

56分、やや右サイド寄りでボールを持った青山、一気にサイドチェンジ。糸を引くような鋭いボールは一気に局面を変え、左サイドの服部公太にピタリ。服部のクロスから木村龍朗へのクロス。ゴール!!

「4点目を決めた高木、右サイドからコンビプレイで何度も崩しを見せた髙柳。ボランチとして落ち着いたボールキープと幅広い展開を見せた青山。若者たちがピッチ上で躍動し、赤組の守備を引き裂いた」

この試合での戦評で筆者はこう記している。今も、そのサイドチェンジの軌道を覚えているくらい、記憶は鮮明だ。

それはこの時、青山とは逆のチームでプレーしていた森﨑和幸CRM(以下カズ)にとっても、同じだった。

「僕自身、第1印象はあまり覚えない方なんですよね。特にあの頃は余裕がなくて自分のことだけで精一杯で、周りを見ることができなかった。

それでも、あの時のアオ(青山敏弘)ははっきりと覚えている。その要因は、やっぱりあのサイドチェンジなんです。高校生であんな質の高いサイドチェンジができるなんて。本当にビックリしたのを覚えています。それくらい速くて、質の高いボールだったから」

カズはこの時、青山に対する基礎知識を全く持っていなかった。その前年の秋、全国高校サッカー選手権岡山県大会で起きた「幻のゴール」事件の当事者であることも、彼は知らなかった。

足立修強化部長は、あの「幻のゴール」を契機に青山に注目していた。

あの事件は青山のキックがあまりに強烈だったが故に、ボールがまるでポストに当たって跳ね返った如きの速さで飛びだしてきたことが、誤解を生んだ要因。「青山のシュートだったからこそ、ああいうことが起きた」と足立部長は語っている。

「しかも、彼はこの事件でネガティブになるのではなく、プラスに変えて大きく成長した。そのメンタルは、本当にプロ向きだと考えた」

当時の広島は、カズや森﨑浩司もまだ若く、彼らと同期の松下裕樹も可能性を感じさせた。1年下には李漢宰もいたし、ユースには髙萩洋次郎や髙柳一誠、柏木陽介といった将来有望な中盤の才能たちで溢れていた。

しかし、そこで強化部はあえて、青山敏弘という年代別代表でも実績の乏しい若者を獲得する。足立スカウト(当時)は、当時「天才」と評されていた梶山陽平(当時FC東京U-18)との対決を国体で観戦したが、「紛れもなく青山が上」と結論づけていた。

知名度や実績でははるかに梶山の方が上だったが、青山の持つ創造性や破壊力は「天才」よりも上だ、と。

だからこそ、彼が広島に欲しい。広島ユース組ではない彼を新しく入れることで、若者たちの競争はさらに激しくなり、それによって青山も他の選手たちも、成長するはずだ。

 

 

こんなに凄い選手だったんだ

 

青山獲得にターゲットを絞り、他の高校生MFには目もくれない。そのスカウト活動が奏功して、作陽高のヒーローは広島加入を決めた。だが、彼は1年目に腓骨骨折。2年目には左膝前十字靱帯断裂。ケガの連鎖でなかなか力が発揮できない。

カズも2年目までの彼に対して、特別な印象はなかったという。

「あの時は、アオが後に日本を代表するプレーヤーになるなんて思ってもみなかった。彼がケガから治って練習復帰してきても、そんなに印象強い何かを僕は見ることができなかったんです。

もちろん基本技術はしっかりとしていましたけど、ボランチのポジションを脅かされる印象はなかったですね」

足立部長は、それでも青山に期待していた。

「アオは少年時代から、本当にビハインドな人生を歩いてきたから」

J1通算400試合という記録を達成するようなレジェンドたちは、その多くが小学校時代からのエリートだ。子供の頃から注目され、トレセンでも評価され、年代別代表の常連になる。

だが青山は岡山県選抜にも入れず、全国トレセンの経験もない。兄がスカウトされ、自身も行きたいと望んだ東海大五高からの誘いもない。高校では評価され始めたが、そこでも「幻のゴール」だ。

そして、プロに入ってもケガにつぐケガ。プレー面でも評価されず、2年間で公式戦出場はナビスコカップの1試合だけ。

「若い年代からここまで厳しい状況を受け入れて、そこから這い上がってくるような選手は、今はいないと思います。

ただ僕は、絶対に這い上がってくると信じていた。彼を採用する時も、広島ユースにあれだけの人材がいるんだからとも言われたが、絶対にアオがあがってくる、と。JリーグMVPやワールドカップ出場までは、想像できなかったけれど」

3年目を迎えた青山にとって、切実なのはその年に切れる契約。今ならば出場機会のない若手を下位カテゴリーのチームに期限付き移籍させて成長を促すという方法がとられる。

実際、髙萩洋次郎や森脇良太らは後に愛媛への期限付き移籍で大きく成長した。今の広島でいえば、磐田への期限付き移籍で経験を積んだ川辺駿らがそうだ。

だが、当時はそういう発想には乏しい。期限付き移籍というシステムは存在したが、多くの場合はそのまま一方通行。戻ってこれないと多くの人々は思っていた。

「あの時はまだ、試合出場機会のない選手が期限付きで別のチームに行くのはハードルが高かった。

だから選手たちのことを考えれば、契約を自由にさせて(移籍金なしで)次のチームを探してやるのが精一杯。新人と3年契約を結び、その契約期間内にある程度の戦力にならなければ(次を探す)、というのが当時は主流でした」(足立)

青山自身も勝負の年だと位置づけ、常に自分のベスト以上のパフォーマンスを発揮しようと心に決めて、トレーニングに打ち込んだ。だが結果として、彼が自身の能力を解放して試合のピッチに立ったのは3年目の7月19日、対名古屋戦まで待たねばならなかった。

当時、森﨑和幸は慢性疲労症候群の症状が出て、4月から長期離脱に入った。なかなか状況はすぐに好転しない2ヶ月間。だが、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任した6月から少しずつトレーニングに戻り始めた。

そこで彼が見たものは、かつて意識したこともなかった青山敏弘の輝きだった。

「練習を見て、アオがこんなにも凄いプレーヤーだったんだと、その時に認識したんです。僕が離脱から復帰した時点でいえば、自分よりもアオの方が上だなと率直に思いましたね。

走れるし、パスも正確で、速くて強いボールも蹴れる。

ミシャ(ペトロヴィッチ監督)のサッカーにおいて求められるものとしては、その段階ではアオの方が上だとすぐに思いました」

足立部長は、ペトロヴィッチ監督が青山を「発見」した事実について、「巡り合わせもある」と言う。

「小野さんやマキ(牧内辰也サテライト監督)さんの指導を受けた2年半で、青山は時分の肉体をつくりあげた。それは彼の成長の中で必要な時間だったんですね。

そしてその後、ペトロヴィッチ監督が来てアオを見つけてくれた。彼自身、いいものを出していましたからね」

だが、そこから順風満帆にならないところが、青山らしい。

2007年、広島は入れ替え戦に敗れ、J2降格。契約交渉の後の会見では大粒の涙をこぼして悔しさを発露した21歳の若者は、22歳になった2008年、大きな飛躍を遂げる。

それはまず、佐藤寿人とのホットライン開通。そしてもう一つは、森﨑和幸との歴史的ダブルボランチが初めて実現したことだ。

 

※全文(約1万字)は現在発売中のSIGMACLUB7月号に掲載しています。ぜひ、ご覧ください。

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