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【サンフレッチェ広島公式戦連続915試合継続中】取材してきたサンフレッチェ広島の試合を振り返りたい※連載開始予告

2000年から「アシスト」の編集にも関わり始めた(今は紫熊倶楽部増刊という位置づけではなくなったが、編集には引き続き関わらせてもらっている)。サンフレッチェ広島の密着取材を始めた時、高橋泰がルーキーながら台頭。非常に思い入れの強い選手である。どこかのタイミングで彼のことを書いてみたい。

 

公式戦がなくて時間がある。

日本全国、そういう状況であるのだから、当然と言えば当然ではある。

こういう時は、自分のこれまでをつい振り返ってみたくなるものだ。

僕がサンフレッチェ広島の取材を始めたのは1995年。最初にインタビューしたのは、元日本代表でアトランタ五輪のブラジル戦にも出場している路木龍次だった。もっとも当時は、レギュラーの座を奪ったばかりの若手だったのだが。

ただ、スポーツ記者としてではなく、求人誌の記者としては、大木勉に取材している。まあ、インタビューとしては難しい選手で、笑顔もなく喋りも「ポツリ、ポツリ」だった。ただ、それはその後もあんまり、変わらない。最初は「バカにされているのか」と憤慨してしまうほどだったが、それが彼の個性であり、極度の照れ屋だからそうなっただけ。それは、サンフレッチェ広島を継続取材してわかったことだ。

当初は月刊誌の記者として、ホームの試合とインタビューだけを行っていた。トレーニングにいつも行くわけでもなく、囲み取材もほとんどやっていなかった。もちろん、慣れるにしがって、少しずつではあるが取材頻度も多くなってはいたのだが、それでも今とは比較にならない。僕がサンフレッチェ広島の仕事に特化して生きていこうと決断したのは、1999年のこと。おそらくは日本で初めてとなるサッカーに特化した有料インターネットマガジン「広島フットボール」の創刊を決意した時だ。

どうしてそういう決意をしたのか、それはまた語る機会もあるだろう。とにかく、この時に僕は「サンフレッチェ広島の仕事」で人生を賭ける決断を下した。そうなれば、常にチームの側にいないといけない。僕はほぼ毎日、練習場に顔を出した。それだけではなく、リーグ戦をはじめとして全ての公式戦を取材しようと決めた。これも当時、フリーランスの記者で全試合帯同を行っている人は、居なかったはずである。まだエルゴラッソもない時代だ。

アウェイの現場に顔を出すと、まずスタッフが驚いた。

「どうしたの?」

「いや、試合があるから来ました」

「えー、こんな遠くまで」

「いやいや、やるべきことだから」

選手や監督の反応も変わった。もちろん、いきなりフレンドリーになることはないが、普通の囲みで喋ってくれる内容が、明確に変わった。

彼は、いつも見ている記者だ。

そんなイメージを持ってくれたのだろう。トレーニングから、アウェイの試合から、ほぼ全てを見ている。そういう姿勢を、彼らも認めてくれたと思う。

では、どれだけの取材を重ねてきたのか。昨日、ちょっと計算してみた。1999年のヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)、アウェイの仙台戦ただ1試合を除き、国内外問わず1999年以降全ての広島の公式戦を取材。今、915試合連続での取材続行中だ。途中、右肘の骨折・手術・入院などがあり、何度か途切れそうになったのだが、周囲の助けもあって、何とか続いている。

これから再開まで時間もあることだし、その915試合の中から記憶と記録を掘り起こし、サンフレッチェ広島の個人的な歴史を試合で振り返っていきたいと思う。なので、1998年以前の試合は含まれない。1995年〜98年までもホームゲームは全て取材しているし、それ以前はサポーターとして試合を見てきたが、やはり自分が人生の決意を固めたその年からの振り返りにしたいと思う。ご高覧いただければ幸いです。

 

(了)

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