【SIGMACLUBNEWS】荒木隼人 ROOKIE OF THE YEAR(SIGMACLUB立ち読み版)
僕は広島でプロになりたい
悔しさとか、屈辱感とか。そういうネガティブな心理は、確かに力になる。しかしそれも、前を向こうというベーシックな精神状態があっての話で、それがなければ暗黒面に陥るだけだ。
たとえば、荒木隼人の話をしよう。
彼はG大阪の育成組織にいた。同期は井手口陽介という天才的なボランチである。本田圭佑や家長昭博、稲本潤一や宇佐美貴史ら、才能の輝きを見逃さずに発掘し、トップオブトップに送り出す実績にかけては、日本トップクラスの実績を持つG大阪の育成で過ごした彼だったが、G大阪ユースへの昇格は叶わなかった。
悔しさはある。後に関西大で大きな成長を果たした時も、「G大阪から声をかけられても行きたくなかった」と語った。「プロになるなら広島だけだ」と。
ただ、「本当に濃い時間を過ごした」という広島ユースから直接、プロになることはできなかった。
「広島ユースから声を掛けてもらった時は、本当に嬉しかった。練習参加した時も雰囲気がよくて、いいチームだなって思っていたから」
1年の時は森山佳郎監督から厳しく鍛えられ、2年からは望月一頼監督から具体的な技術・戦術に落とし込んだ指導を受けた。成長は実感していたが、3年の時に「プロは厳しい」と実感した。2年の終わりにケガでトップチームのキャンプに参加できなかったことも、大きかった。評価をあげるチャンスを逸していた。
彼の一つ上の世代は、川辺駿・宮原和也・大谷尚輝とトップチームに人材を輩出した黄金期。タイトル獲得の経験も豊富だ。しかし、荒木の世代はそういう栄光にも届かず、ユースから直接、プロになった人材もいなかった。荒木は、その事実そのものが「悔しかった」という。
だが、広島ユースに行ったことに後悔はなかった。
「自分のサッカー人生において、大きなターニングポイントとなったことは間違いないです。自分たちが練習しているその身近にプロの選手の存在があった。そのおかげで、プロを目指す覚悟も生まれた。お手本が近くにあることで、すごく成長できた3年間だった」
もしG大阪ユースだったら「自分は今、この場所にはいない」と断言する。「水が合う」という言葉があるが、荒木の個性を考えると確かに「広島」であって、G大阪っぽくはない。言葉にするのはとても難しいが、G大阪ユースが持つ「才能集団」、そして「ヤンチャ軍団」というイメージと荒木は真逆にいる。才能は持っているが、それがオーラのようにキラキラとしているわけではなく、どちらかというと内側から静かな光を発するタイプ。真面目すぎるほど真面目であり、いわゆる大阪のノリもない。
「そうなんですよね。大学の時も、周りはみんな広島出身だと思っていたくらいで。大阪出身だというと、みんな驚いていました(笑)」
広島ユースで成長した実感を持てたからこそ、大学卒業後にプロとして広島に戻りたいという野心を持った。が一方でこうも考えた。
「高卒でプロになれなかったということは、才能も実力もないということ。プロになっても、セカンドキャリアのことを考えると、サッカー以外のことでもしっかりと学べる場所がいい」
選択したのは関西大。実家から通える近さもメリットだったが、一方で広島が近いということも大きな要素ではあった。関西の方が、広島のスタッフは見に来やすいだろう、と。彼の広島へのこだわりは、尋常ではなかった。
大学のサッカー部というのは、一言で言えば玉石混交である。全体で250人くらいの人材がいるが、全てがプロを目指している集団ではない。広島ユースでは、全員がプロを目指して切磋琢磨していた。その環境に慣れていた荒木は当初、その雰囲気の違いに戸惑った。サッカーに向き合う本気度というか、目指しているものの違いによる熱度は、どうしても違う。そこの部分でのぶつかりあいは、広島ユースでは経験したこともなかった。
それは広島ユースから大学に進学した多くの選手たちが、経験していること。若者は、流される。目標を高く掲げていることが、まるでダサいかのような雰囲気に飲み込まれることは決して少なくない。そっちの方が楽だし、水は低きに流れるものだ。
だが、荒木はそうはならなかった。広島でプロになる。その目標は、ゆるがなかった。その意志の強さは、紛れもなく才能と呼んでいい。低きに流れないことの難しさは、年をとって振り返れば実感できる。
もう一つは、関西大の環境にもあるのだろう。Jリーグのチームとトレーニングマッチをする機会は、決して少なくない。大学2年の時は天皇杯に出場し、清水との真剣勝負も経験した。
「すごく楽しかったですね。その試合を通して、自分の実力を確認できた。やれないことはない。ストロングは通用する。だから、やっぱりプロになりたいと決意することもできました」
また、広島のスタッフが1年の時から定期的に見てくれていたことも大きかった。当時のスカウトだった村山哲也氏は、ユース時代の荒木をコーチとして指導していた間柄。温厚でハードルも低い村山スカウトは荒木にとっての羅針盤的な存在。彼が近くにいてくれたからこそ、「広島にプロとして戻る」という荒木の決意が揺らぐことはなかった。
4年の春、広島のキャンプに参加。緊張もあって自分のプレーが出せず、「広島でプロになる」という目標が達成できないかもという焦りもあった。しかし7月、吉田サッカー公園に来て練習参加した時は「やれる」という自信を回復。その時、クラブからプロ契約のオファー。広島ユース→大学→トップチーム加入という流れは、茶島雄介以来2人目。目標に届いた。成し遂げたことへの満足感で、胸がいっぱいになった。
(※続きは現在発売中のSIGMACLUB12月号で)