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森崎和幸物語/第8章「慢性疲労症候群」

J1復帰を決めた翌週、広島は優勝をかけてC大阪とのアウェイゲームに臨んだ。もちろん、2位との差を考えても、優勝は必然。とはいえ、目標を「勝点100、得点100」に上方修正したチームにとっては、勝たなくていい試合など1つもなかった。

だが、その大切な試合に、森崎和幸は出場しなかった。ベンチには入っていたものの、出場する気配はなかった。

「疲労性腰痛」と説明を受けた時、記者たちは誰もが納得した。精神面でも肉体的な面でも、カズは本当の意味でチームの支柱となり戦い抜いてきた。新しいフォーメイションを根付かせ、可変型システムを開発し、全ての力をチームに注ぎこんで戦い抜いた2008年のカズが「疲れた」と言えば、確かにそのとおりだろう。実際、次の試合ではストッパーではあったがピッチに戻ってきていた。大きな問題とは捉えていなかった。

とはいえ、彼には2006年の長期離脱というトラウマがある。だからその二の舞は避けようと、コンディション調整に気を配った。2009年は大切なJ1復帰初年度である。できれば、完璧な形で挑みたかった。

2004年の時と違い、2度目のJ1復帰を果たした広島には大きな期待がかかっていた。圧倒的な強さでJ2を駆け抜け、天皇杯でもJ1クラブを圧倒。J1で優勝を争っていた強い川崎Fに完勝し、延長で敗れたとはいえ柏を内容では圧倒。

「広島はJ1でもやるんじゃないか」

そんな評価の高まりは、肌で感じていた。

だが、2008年末から、チームには暗い影が落とされる。J2で14得点7アシストという圧巻の実績を残した得点源であり、前線のコーディネーターである森崎浩司が、オーバートレーニング症候群を発症したのだ。しかも、病状は深刻だった。

既にシーズン終盤から症状が出ていた浩司だったが、オフに入れば回復するとも考えていた。しかし、それはあまりに楽観的すぎた。状態は悪化の一途をたどり、練習に参加するどころか、身体を動かすことも難しくなった。この時の状況を、自著「戦う、勝つ、生きる」から引用したい。

 

不眠症。動悸。立ちくらみ。手足の冷たさ。ボールを蹴ろうとしても、その軌道すらつかめない。目の焦点も、合わなくなったままだ。

そして彼は「地獄」を迎えた。

押し迫る焦燥感。

身体が極端に重くなっていた。

やがて彼は意識を失った。

気がついた時は、生きる意欲を失っていた。

 

そう。浩司はこの時、あの溌剌として陽気で、そしてサッカーを楽しんでいた青年とは別人のようになってしまった。喜怒哀楽の感情すら、失っていたのだ。キャンプから戻ったカズが浩司に会った時、あまりの変わりように言葉を失った。呆然と立ちすくむ兄に対し、弟はすがった。

「どうすれば、俺は楽になれるんだ。カズ、教えてくれ」

開幕前、浩司のことが心配だった僕は、カズに彼の様子を聞いた。その時、カズは悲しそうな表情で、こう答えた。

「もう、サッカー選手として戻ってきてほしいとか、そんなことは望んでいないんです。兄として、弟が普通の生活を送れるようになってほしい。願いは、それだけです」

この言葉を振り絞ったカズには、どれほどの哀しさと痛みがあったことか。その本当を知ったのは2010年、浩司が復帰して病状を赤裸々に語った時のことだ。

「浩司の分まで、やらなきゃ」

そう思っていたカズだったが、彼は彼で、迫りくる体調不良の恐怖を感じていた。2008年の終盤に襲ってきた症状はもう治った、もう大丈夫だと信じたかった。

だが2009年3月12日、目に異常を感じた。全てがぼやけて映り、焦点が合わなくなった。新聞を読もうとしても頭に入らず、文字が揺れて見えた。心臓の鼓動が速くなり、一方で血流に問題を抱えているのか、手足も冷たくなった。

やがて、夜も眠れなくなる。食欲もない。味覚を感じない。五感がおかしくなった。周りが何を言っているのか、耳には聞こえていても、その内容や意味が頭に入らない。自分の考えをまとめることもできない。コミュニケーションがとれなくなって、他人と接するだけで猛烈な疲れを感じるようになった。ずっと緊張感を解くことができず、リラックスできない。

ピッチに立っても、試合の状況がわからない。先の展開を予測することもできない。本能だけで身体を動かして、なんとかごまかすしかなかった。

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