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森崎和幸物語/第2章「挫折と成長と」

 

 クラブ初の高校生Jリーガーであり、クラブ初の高校生天皇杯決勝戦出場を果たした若者は、その翌年(2000年)にはやはりクラブ初のJリーグ新人王も獲得。U-19日本代表の主力として出場したアジアユース(現AFC U-19選手権)では、準決勝の対中国戦で見事なミドルシュートを叩き込み、ワールドユース(現U-20ワールドカップ)出場を決めた。森崎和幸のJリーガーとしての人生は、これ以上ないほど、順調そのもののスタートとなった。

2001年、ヴァレリー監督のもとで攻撃性と運動量を磨いたカズは、ワールドユースにも当然のように出場。グループリーグ突破はならなかったが、第3戦のチェコ戦でGKベトル・チェフ(後のチェコ代表の守護神で、現在はアーセナルでプレーする世界的なGK)を唖然とさせる美しいミドルシュートを決めて勝利に貢献。2004年のアテネ五輪に向けてのチームでも、カズを中心に構成されると思われた。

2002年5月、トゥーロン国際大会に出場するU-21日本代表にカズは選出。この時、まだ山本昌邦氏が監督に正式就任する前だったこともあり、小野剛がヘッドコーチとして指揮をとった。カズがトップ下に入ったが、事実上は阿部勇樹(現浦和)・鈴木啓太(現解説者)との3ボランチ的な役割で中盤を構成。松井大輔(現磐田)・山瀬功治(現京都)・中山悟志(現G大阪スカウト)のスピードに満ちた3トップを自在に操った。

躍動感に満ち、攻撃性にあふれ、アイディアに満ちたこのチームは、後のアテネ五輪代表とは全く別物のテイスト。アイルランド・南アフリカに圧勝し、ドイツとはゲームを支配しての3−3。イタリアには敗れたものの、イングランドとは激闘を展開してPK戦で勝利。堂々たる3位を獲得し、中山は得点王、松井はベスト・エレガントプレーヤーに選ばれた。ちなみにこの時、横内昭展コーチもアシスタントコーチとして帯同している。

その後に就任した山本昌邦アテネ五輪監督は、トゥーロンで結果を残したチームを練習試合で当時J最強の磐田にぶつけた。結果は7−0で磐田。だが、ほとんど準備期間もなく、練習もそこそこのチームでは、コンビネーションがほとんどとれないのも当然。まして相手はJ最強であり、史上最も美しいコンビネーションを誇っていた磐田が、レギュラーで臨んできた。ちなみに2002年の磐田は30試合で勝ち点71。年間2位の横浜FMと勝ち点差16ポイントをつけるというダントツの強さを誇っていた。得点71(平均得点2.37)という圧巻の破壊力をベースにした強さは、Jの歴史に燦然と輝く。

正直、勝てるはずはない。それでも、トゥーロンのメンバーそのままでやれれば、まだコンビネーション面で戦えただろう。だが、キーマンだったカズは先発から外され、山瀬もいない。最終ラインでもCBのキーマンだった冨澤清太郎(現千葉)も外されていた。

結果しか見ないメディアは単純に「U-21日本代表は力がない。アテネ五輪、大丈夫か」と書き立てた。山本監督は、この磐田戦を「トゥーロンの結果で浮き足立っていた若者たちに、現実を知らしめる」ために組んだと言われている。それが真実かどうか、そんなことはどうでもいい。だが、山本監督はこの後、明白にトゥーロンの時とは違う方向に、チームの舵を切った。スピードと高さ、そして強さ。フィジカルの要素が重視され、一方でカズのような知性に満ちた技術者タイプは枠の外に置かれていった。他にも、佐藤寿人や野沢拓也(現仙台)もそうだ。

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