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【災害】辛い時、厳しい時、スポーツが希望を点してきた歴史がある。

北海道のことに想いを馳せつつも、スポーツのことを語っていきたい。プロスポーツは、被災当初は確かに力を持ち得ないかもしれない。しかし、被災した方々に喜びや励まし、楽しさを届ける時には素晴らしいツールとなりえる。日本代表やコンサドーレ札幌、Jリーグの力は、必ず北海道の人々に対して希望の灯火を照らすことができるはずだ。そう信じたい。

広島が甚大な、後世に生きる我々には想像もつかないような原爆被害を受けたその5年後に、広島カープは誕生した。そのことが広島の復興にどれほどの力を発揮したか、その歴史はよく語られることである。だが、戦争で焼け野原になったのは、被爆地の広島や長崎だけではない。1945年の東京大空襲では、死者が10万人を超え、100万人規模が被害にあったと伝えられている。しかも東京はその後、4度に渡って大規模な空襲を受けた。この空襲のため、東京はほぼ壊滅状態に陥ったという。そしてその後、東京大空襲のような無差別空襲は日本全国に広がり、そして広島・長崎の悲劇があった。

日本全国が壊滅的な被害を受けた中、日本プロ野球は1945年11月23日、東西対抗戦を実施している。敗戦からわずか3カ月後のことだ。人々は野球どころではなかったのかもしれない。しかし、神宮球場をはじめとして3カ所・4試合で行われた東西対抗戦は、新聞購読料が月5円だった時代に6円の入場料がかかったにも関わらず、5878人の観客が集まったという(この試合のエピソードはスポーツニッポンの2010年11月1日の記事に詳しい)。

この試合が実現されなければ、この試合が事実上のプロデビューとなった大下弘の大活躍に人々が熱狂しなかったら、日本プロ野球の再興は果たせなかっただろうし、そうなればカープの存在もない。焼き野原になった東京で、日本で、プロ野球は人々が明るさを取り戻す契機とになったのだ。

(残り 1225文字/全文: 2005文字)

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