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【日本代表】森保一日本代表新監督とエディ・トムソンとの「闘い」の日々-前編

 

2018年7月26日は、日本サッカー界にとって歴史的な日となった。

Jリーグでプレー経験のあるサッカー人として初めて、森保一が日本代表監督に就任したこと。フィリップ・トルシエに続いての五輪代表監督との兼任。Jクラブの育成・普及部門で指導経験のある人物が、Jリーグ発足以降では初めて日本代表監督になった。そして故石井義信元監督についで戦後2人目となる高卒の代表監督である。

大卒ではない森保一は、日本サッカー界においての主流とはいえなかった。石井義信氏の場合は東洋工業という1960年代にリーグ4連覇という前人未踏の記録を打ち立て、日本サッカーにおいて大きな力をもっていたチームの主力。しかし、森保一監督の出身母体であるサンフレッチェ広島は東洋工業の直系クラブだったとしても、日本サッカー界に大きな力を持つ勢力とは、残念ながら言えない。そういう意味においても、森保は主流派ではなかったはずである。なのに、彼は日本代表監督という頂点の場所にまで辿り着いた。サンフレッチェ広島をサポートしてきた立場からすれば、これほど嬉しいことはない。

2004年、普及部巡回コーチとして指導者の道をスタートさせ、「自分のチーム」をもっていない状況で各地をまわり、専任の指導者たちに遠慮しながらボール拾いに走っていた森保一が、その8年後にはサンフレッチェ広島の監督としてチームの初めての栄冠をもたらし、昨年末には東京五輪代表監督に就任。そして今回、フル代表の監督を兼任する。もちろん、彼が目の前の仕事に対して懸命に取り組んだからこそ認められ、実績が次のチャンスを呼び込んだことは間違いない。だが、それにしても、運命というのは凄い展開を構築するものだ。

森保一は、高校時代から注目されていたわけではなく、長崎日大高から広島にやってきた時もマツダではなくマツダ運輸に入社したことからも、彼への期待度がわかるというものだ。だがそこでハンス・オフトという指導者に潜在的な才能を認められ、彼からモダンサッカーをたたき込まれて、大きく成長する。1992年、日本代表に選出された時、代表常連の井原正巳からは「君、誰?」と言われたという逸話も残っているほどの無名さ。しかし、そこから実績を積み上げてオフトが率いる日本代表では欠かせない存在となり、1993年のアジア最終予選では不動のレギュラーに。「ドーハの悲劇」をピッチで体感したショックを振り払い、翌1994年にはサンフレッチェ広島をステージ優勝へと導いた。

よく語られる栄光のストーリー。しかし、森保一が指導者として大きな花を咲かせた理由は、その後の彼のサッカー人生にあるとみている。もちろん、よく言われるように森保の人間性は素晴らしく、触れる人々の誰もが魅了される。どんな相手に対してもオープンであり、気配りに優れ、屈託もない。だが、人間性はマネジメントにおいて重要な要素ではあるが、それは「優しい」とか「大きい」だけではいけない。「厳しさ」あるいは「冷たさ」もまた、組織マネジメントにおいて重要な要素である。その「厳しさ」が選手を育てることを森保が体感したのが、広島の低迷期に就任した故エディ・トムソン監督時代だった。ここからは親しみをこめて、彼をエディと呼ぶ。

今、こうして歴史を振り返って考えてみると、エディが広島に残した遺産の中でもっとも大きな要素は、森保の育成だったのではないか。彼を育成したというと、オフトやスチュワート・バクスターの名前があがるが、指導者・森保、あるいはプロフェッショナル・森保の意識を磨き上げたのは、エディの「冷たさ」だったのではないか。

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