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青山敏弘物語〜逆境〜 第15章/嗚咽

2007年12月8日、降格が決まった後、青山敏弘をはじめとした若者たちが、サポーターに頭を下げた。

 

 

2007年12月13日、筆者は降格後初めて、吉田サッカー公園に向かった。

2年目のJ2降格が決まったのは、その5日前。京都とのJ1・J2入れ替え戦(ホーム&アウェイ)で敗れ、サポーターから猛然とした批判を浴びた。さらに久保允誉社長(現会長)が敗軍の将であるミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現札幌)を翌年も再び、監督として任せるという前代未聞の決断を敗戦直後に発表したことによって、批判はさらに高まった。その決断の凄みは歴史が証明しているし、今は「英断だった」という評価が定まっている。だが、この時はとんでもない量の非難がクラブを包んだ。

J2降格の責任をとり、久保社長は代表権をもたない会長へと退いた。「降格は自分の責任」と言い切った。SIGMACLUBでのインタビューで、会長はこう話している。

「本当に、自分の責任だと考えたんです。それは素直な気持ちでした。あれだけいい選手がいて、代表選手も育成して、あれだけいい監督を招聘して。誰も降格するなんて、思ってもいなかった。でも現実は違った。私自身、なんとかなると甘えていたのかもしれない。実際、私は(エディオンの経営という)本業がある。でも、それを理由に、それを言い訳にして、サンフレッチェから投げていたのかもしれない。サンフレッチェのトップとして、適切ではない」

降格が決まった後のセレモニーで、サポーターの方を向いて陳謝する久保允誉社長(現会長)

 

そして、ペトロヴィッチ監督の続投についても触れている。

「選手と監督に反省を仰ぐのは当然ですが、監督に責任をとらせて表面的に(事態の収拾を)すませるのではなく、フロントが責任をとることで(クラブとして)現状を見据えたいと思った。そして何よりも、ペトロヴィッチ監督を解任することで、多くの選手が出ていってしまうという確信があったことも大きい。彼は監督としてだけでなく1人の人間として、多くの選手から父のような尊敬と信頼をうけていた」

サンフレッチェに日常的に関われなかったことがこの結果を招いたと、会長は語っていた。それでも、選手とペトロヴィッチ監督との関係性は正確に把握していた。だからこそ、降格した直後にロッカールームを訪れ、意気消沈した指揮官に「来年もよろしくお願いしたい」と告げた。「今回の件は私が悪かった。もっとコミュニケーションが必要だった」と頭を下げた。

「もし、ペトロヴィッチ監督でなかったならば、違う判断になっていた。彼のサッカーに対する信念と指導力はもちろん、選手たちへの愛情を強く感じた。時に選手に厳しく接しつつ、それでいて彼らそのものを受け入れる。悪い結果が出ても、それを人のせいにはしない。それはこのチームにとって、非常に大きなことです」

一方、ペトロヴィッチ監督は降格したその時、「自分は責任をとらないといけない」と考えた。実際、どんな大敗をした時でも自信満々で記者会見に臨んでいたが、この時だけは意気消沈。ずっと下を向き、記者達に正対することすら、できなかった。この時点ではすでに自身の「残留」は決まっていたのだが、それでも責任の重大さに押し潰されてしまいそうになっていた。

「あの日、私は辞任しないといけないと考えた。監督である以上、責任はとるのは当然。でも、久保会長の言葉を受けた時、私にはもう他に選択肢はなかった。これほどの信頼を寄せてくれるクラブの下で、私は喜んで仕事がしたい」

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