「川崎フットボールアディクト」

【#オフログ】10月3日 見ると、観る(関西取材記)

■工房
さていよいよ工房へ向かう。

西大寺から車で10分ほど行っただろうか。田舎の集落にある小さなガレージのようなところに車が停まる。外から見ると、物置小屋のような佇まいだ。

シャッターを開けてもらい中に入ると、まず目につくのが大量の米袋で、中には最初の推測どおり炭が入っているのだという。軽自動車のバンの車内一杯に詰め込まれた炭が日本刀1本を打つのに必要な分量なのだという。

壁際の空間の大半を炭が占める工房で、インタビューを始めた。

サッカーと刀鍛冶と全く接点はなさそうだが、職人としての仕事の向き合い方に何か通じるものがあるのではないかと考えていた。それを聞き出すのがインタビューアーとしての力量ということになるのだが、聞くべきは飽くまでも日本刀の刀工としての仕事について。長時間に渡り話をしてくれた中で、印象的な言葉が幾つか出てきた。その一つが刀との向き合い方だった。

■刀に一礼

刀と向き合った時の話について聞いていたときのことだ。
横井さんは「鞘を払う前には一礼します」という。
ふと、刀に神性のようなものを感じたのかと考え、

--それは未知なるものに対する畏怖の念も入ってるんですか?

と質問を投げかける。横井さんは

「三種の神器の一つが、剣になっているように神でもあるんですね」と口にしつつ「魂というのは命ですが、それが力を持ってるということなので(魂がこもった刀は)、神という言い方もできるのかもしれません」と言う。

ここで横井さんの口から魂という言葉が出て来る。つまりこれは一般的に使われる「魂を込めて作る」という言葉が横井さんにとってはかなり真実味を持っていることを示唆する。つまり、実際に精魂を込めて日本刀を作ってきた刀工だからこその言葉なのだろうということ。その横井さんは、自らの魂を込めて作り上げた日本刀を「自分と同格ではないですよね、自分の相棒ではない。やっぱり自分より神格化されたものが刀である」と説明する。

個人的に魂という言葉から受け取る感覚として、ぼくは「自らと近い存在」であるものを想定していた。なぜならば、魂の出自は普通の人間にあるからだ。ところがそんなぼくの考え方はどちらかと言うと少数派で、魂は魂になった時点で人間よりも高次のものになると考えるのが一般的。

その魂がこもっているからこそ、横井さんは、自らのものを含め、完成品としての日本刀を指して「自分と同格ではない」と言う。つまり、本当に魂が込められた日本刀というものは、神に近づくほどの(精神的な)重さがあるということなのだろう。

八百万の神々の国に生きてきた日本人にとって、神性を感じて頭を下げることは普通に行われる行為だ。畏怖の念を背景にした人知が及ばない自然に対する敬意の示し方と、日本刀に代表される本気の職人の仕事を経た作品に対する思いは近いものがあるのかもしれない。

■見るではなく、観る

神に近い存在であるところの日本刀を、横井さんは観るのだという。

「Lookの見るじゃなくて、観る方の観る」で日本刀を観ているという。

見ると観るの違いはすぐには理解できなかった。戸惑いの気配を察した横井さんのさらなる説明は非常に分かりやすかった。

「サッカー観戦も観るですよね。あれはただ見てるわけではないですよね。すごく頭を使ってるじゃないですか」

サッカーを見るではなく、観る。確かにぼくたちは試合を漫然と見ているのではなく、観ている。そしてはこれは日本刀にも当てはまる考え方なのだという。日本刀を鑑賞する際にわかりやすいのが、様々な角度で変化する刀の表面の表情で、それはまさに観る対象なのだという。

「裸電球にかざすわけです。いろいろな角度から観る。そうやって1時間も2時間も見てる人がいるんです」と横井さん。そうやって観ることを通じて「ずーっと対話してるんですね。そうやって凄く楽しんでるんですね」という。

なお、そうやっていつまでも観ていられる刀は、いわゆる名刀なのだという。名刀だからこその味。味があるからこその名刀なのだろう。

長時間の鑑賞に耐えうる日本刀があるように、何度読んでも飽きさせない文章というものを書きたいと思った。時系列で試合を追いかけていてもそれは作業だが、そこに感情や、情景分析、戦況分析を加えたレポートは創作物になる。いつまでも観ていられる日本刀の話を聞きながら、より良い創作を続けなければと強く思った。

■超えられない技術

2時間ほど話を聞かせてもらったあと、日本刀を実際に打ってきた仕事場を見せてもらう。意外と狭い空間で玉鋼から一振りの日本刀ができる過程を想像する。

日本刀は分類としては幕末から今現在までのものを「現代刀」と言うという。その現代刀は今もって「鎌倉時代平安時代の刀には到底勝てない」のだという。何か一つでも勝てる要素はあるのではないか。そもそも、古いものよりも今のモノのほうがいいのではないかと思い尋ねるが横井さんは「検証してみたんですが、ほとんど今の技術で過去のものに勝ったものというのはありません。それは仏像などを含めた工芸品に限ってのことですが、何もかも負けてます。勝ってるなんて絶対に言えないです。勝ってるなんて言ってるのは宣伝ですよ。愚かな人間です」と断言する。

そういえば興福寺では今、中金堂の再建工事が進められている。お寺の職員の方に言わせると「7回焼かれ、8回目に朽ちた」中金堂を一から再建しているというが、その工事に際しては建築基準法が適用されるのだという。どれだけ宮大工が技術を発揮しても、法体系が復元に限界を作る。過去を超えられない技術は、実はたくさんあるということ。

ただ、今は近づくことができていないその距離を、少しでも近づけるべく日々研究を続けていると横井さんは話してくれた。

気が付けば時間は18時を過ぎており、横井さんの工房をあとにすることに。西大寺駅まで送ってもらい、再会を約しつつ別れた。

宿泊は岡山だ。

(取材・文・写真/江藤高志)

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