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山尾光則アカデミーヘッドオブコーチングがめざす、自立して戦える選手の育成【アカデミー特集2/3】

 
 2月に入り、FC岐阜アカデミーのヘッドオブコーチングに山尾光則氏が就任するという報せに、新鮮な響きがあった。ひとつは役職名。バラけがち、属人的になりがちな指導を体系化して司るという意味を持つ。もうひとつはもちろん人物名。このクラブの人脈からすると、いつ携わってもおかしくない経歴が彼にはあった。
 
 実際に山尾HOCを取材してみると案の定アカデミー全部門で使用するメソッドの作成に着手していた。育成段階にある選手の力を引き出し伸ばしていくためにも、サッカーの原理原則を突き詰め、現代サッカーの潮流を理解しながら、クラブとしてめざす方向性を導き出し、より効率的でピッチ上の結果に反映させられるコーチングを確立していく必要がある。そうした育成スタッフの司令塔として招かれたのが山尾HOCだった。すぐに答えが出る仕事ではないが、FC岐阜U-15のパロマカップ2021 日本クラブユース選手権全国大会進出は短期的な成果だと断じて差し支えない。
 
 FC岐阜がアカデミーで追求する選手像とはどのようなものなのか。可能なかぎり具体的に言語化するべく、山尾HOCのキャリアをあらためて掘り起こしながら指導の基礎となる考えについて訊いた。
 
◆十年後の未来まで求められること
 
 山尾HOCは愛知県出身。身長は180cmに満たないながらも対人守備とヘディングの強さで鳴らすセンターバックだった。名古屋グランパスエイト(当時)でプロの世界に足を踏み入れたあと、2部だった当時の旧JFL時代のヴァンフォーレ甲府に移籍。その後、初年度のJ2に参入、東京ガスからJクラブ化したばかりのFC東京に移籍した。東京での出場機会は少なかったが、パワープレーでの活躍を期待されてピッチに登場するとにわかに活気づくような存在感があった。2002シーズンの後半はセレッソ大阪。最後は横浜FCで主力として活躍、2005年に現役を終えた。指導者としてのキャリアは翌年、生まれ育った名古屋市の愛知FCから。中央道と東海道を行き来して中京圏に戻るという旅路が、サッカーを俯瞰して見る眼を養ったのではないかという気持ちにさせられる、そんな経歴を持っている。指導者となってからはドイツに渡り、ザールラント州ライムスバッハで一年間研鑽に励んだこともあった。
 
 FC岐阜に来て半年。この間はほぼ現状把握に努めている。どのように選手を育成しているのかを見て、何が足りていて何が足りていないのかを分析した。
 

取材に応じる山尾光則アカデミーヘッドオブコーチング。

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