【クラブニュース】佐々木トニーユタカ通訳が多文化共生のための協同事業でキャリア講演を実施。知られざるトニーさんのルーツも明らかに。

知多市にあるつつじが丘小学校でキャリア講演を行なうことになったのは佐々木トニーユタカ通訳。集まった51名の6年生児童に拍手で迎えられる。
本日13日、知多市のつつじが丘小学校の6年生51人を対象に、日本赤十字社と知多市、名古屋グランパスによる協同事業が実施された。かねてから日赤と知多市のあいだでは地域活性化包括連携協定が結ばれており、その多文化共生の実現というカテゴリーにおいて外国にルーツを持つ子どもの多いつつじが丘小学校でのキャリア教育が企画され、名古屋グランパスにオファーが届いたのがその始まり。グランパス側としてはキャリア教育ならば選手よりも通訳が良いのではということで、これまでターレスやパトリックと地元ブラジル人コミュニティとの交流企画に参加してきた佐々木トニーユタカ通訳に白羽の矢が立ったというのが本講演のあらましだ。この日集まったのは同小学校の6年生51人で、うち10名がブラジルを中心にボリビアなどのポルトガル語圏、スペイン語圏にルーツを持つ子どもたち。1週間後に卒業式を控えているというタイミングでのキャリア講演は、新たな旅立ちへ向けても意義深いものになったはずだ。

自己紹介をする佐々木通訳。生い立ちからこれまでのキャリアなどを簡潔に説明した。フットサル関東リーグって相当にレベル高い。
生徒たちの呼びかけで教室に登場した佐々木通訳はやや緊張の面持ちながら、司会の先生の質問に答える形で自らのルーツやこれまでのキャリアなどを丁寧に説明。普段はなかなか掘り下げられることのないクラブスタッフのバックグラウンドを知るのは我々報道陣にとっても興味深く、小学校5年生から日本に移り住んだことでの苦労や挫折、そこからのキャリアデザインなどについて聞くのは新たな発見でもあった。佐々木通訳は日本人の両親の間にブラジルで生まれ、日本語もあまり話せない中で来日。サッカー、そしてフットサルでもプレーしながら27歳で引退し、仙台の通訳となった。14年にブラジルワールドカップ開催が決まると現地での通訳スタッフとして世界的な大会にかかわりたいと帰国、16年のリオオリンピックでも現地スタッフを経験し、その後に名古屋の通訳として来日し、今に至る。その経歴を聞いただけでも、子どもたちには「こういう道もあるんだ」と勉強になったに違いない。

真剣な表情で子どもたちに語り掛ける。穏やかな口調でわかりやすく話していたのが印象的だった。
通訳として大事にしてきたことは「コミュニケーション」だと佐々木通訳は子どもたちに伝えた。選手や監督の言っていることを伝えるためには普段からのコミュニケーションが重要で、時に怒りなども含めて「気持ちを伝えること」を大事にしていると佐々木通訳。そのために駆け出しの頃はサッカー中継などのヒーローインタビューを片っ端から見て、先輩通訳たちがどう訳しているかを自分の通訳と比べて繰り返し練習したといい、そういった努力を聞いた子どもたちは感心した表情で“佐々木先生”を見つめていた。
子どもたちからの質問には良い質問から珍問まで幅広く、「給料は?」「とても安いです(笑)」というやり取りもあれば、「ほかのスポーツの通訳をしたことは?」「オリンピックではサッカーの通訳でしたけど、コーディネーターとしては他のスポーツも関わりました」「大変でしたか」「大変よりも、夢が叶ったという感じ。大好きなスポーツで仕事ができる、しかも自分が生まれた国で役に立つ仕事ができるのが夢のようだった。大変よりも、やっぱり幸せっていう気持ちが大きかった」という先生たちもうなる良いコミュニケーションも。驚いたのは「親の職業は?」と聞かれ、「父親はお寿司屋さんでした」の答え。当時ではまだ珍しいブラジルにある寿司料理店の板前さんだったとのことで、これは我々も初耳の衝撃の事実だった。

佐々木通訳は講演の最後に、「短い時間でしたけれども、本当に僕にとってすごく楽しい経験でした。みんなとこういう時間をできたことはすごく幸せです。29日にホームゲームがあって、スタジアムまで試合を見に来る機会があれば、ぜひ来てください。我々にとってすごく大事な試合になりますので、応援をよろしくお願いします」とあいさつ。
これまでで一番緊張したのは「2回あって、仙台の時に6万人はいるんじゃないかっていう埼玉スタジアムでのヒーローインタビューを通訳した時と、その選手がベストイレブンに選ばれたJリーグアウォーズの通訳」と答えた佐々木通訳は「あ、もう一つあるかな。今日みんなの前でしゃべること」と笑わせ、すっかり子どもたちの心もつかんでいた。最後は記念撮影を行ない、「短い時間でしたけれども、本当に僕にとってすごく楽しい経験でした。みんなとこういう時間をできたことはすごく幸せです。29日にホームゲームがあって、スタジアムまで試合を見に来る機会があれば、ぜひ来てください。我々にとってすごく大事な試合になりますので、応援をよろしくお願いします」と後押しもお願いして講演は終了した。講演後に生徒に話を聞くと、「来てくれて嬉しかったし、知らなかったことをいろいろ知れた。僕はサッカー選手になっていろいろなところに試合をしに行きたい」(ヒロユキくん)、「通訳がどんなことをしているかも細かく知れたし、もっと知りたくなった。名古屋グランパスのことも知れたのでよかった。僕もサッカー選手になりたいので、頑張りたい」(佐々木くん)と、グランパスや通訳をより深く知るきっかけになったようで何より。
佐々木通訳は講演を振り返って「こうやって人前で自分の経歴とかを話すのは初めてだったので、すごく緊張した。もうちょっとうまく伝えられたらよかった」と苦笑しつつも、「すごく楽しかった」と子どもたちとの交流に笑顔。多文化共生についての取り組みが活発化してきた昨今のグランパスの活動においても、新たな好例として刻まれたのではないだろうか。
- 知多市にあるつつじが丘小学校でキャリア講演を行なうことになったのは佐々木トニーユタカ通訳。集まった51名の6年生児童に拍手で迎えられる。
- 小学生たちに自分のキャリアのこと、通訳という仕事についてのことなど、いろいろなことを伝えていた。
- このつつじが丘小学校はおよそ2割くらいの児童が外国にルーツを持つ子どもたちで、この6年生51名の中にも10名の外国にルーツを持つ子どもたちがいた。その子どもたちの中で、ポルトガル語を話す子どもたちは佐々木通訳と母国語でのコミュニケーションをとる時間も。
- 真剣な表情で子どもたちに語り掛ける。穏やかな口調でわかりやすく話していたのが印象的だった。
- 子どもたちからの質問にも笑顔でしっかり答える。
- 「給料はいくらですか」の質問に苦笑しながら「とても安いです」と答える佐々木通訳。
- 「とても緊張した」と言いつつ、講師役を務めあげた佐々木通訳。普段は脇役だけに、なかなかレアな姿でもある。
- 講演後に感想を聞かせてくれたヒロユキくん(左)と佐々木くん。通訳という仕事を知ることができた、貴重な機会となったようだ。
〇佐々木トニーユタカ通訳
Q:すみません、何よりもお寿司屋さんの息子だったことに驚きを隠せないです(笑)。ブラジルでお寿司屋さんをやられていたのですか。
「そうですよね(笑)。お父さんがブラジルでお寿司屋さんで務めていて、ただ自分のお店があったわけではなくて、お寿司屋さんの板前さんのような形で仕事をしていました。その当時は日本食はあまりブラジルでは有名ではなかったんですけどね。今はブラジル行くともう日本食がめちゃくちゃ有名なんですけど」
Q:小さい頃はブラジルで過ごしてきて、その時から日本語は同時に使ってたのでしょうか。
「いやあ、ではないんですね。日本に来た時には『おはよう』ぐらいしかわからなくて」
Q:ただご両親は日本人ということでしたが、家で日本語は使わなかったと。
「日本語使わなかったです。おばあちゃんだけが日本語だったんですけど、自分もブラジルの学校に通っていたので、なかなか日本語を喋る機会がなく。おばあちゃんだけしか日本語は喋れなかったんですが、やっぱり通じないし、全然会話にならなかったですね。全然わからなかったです。おはよう、ぐらいしか」
Q:では日本に来てからは猛勉強だったんですね。今のように喋れるようになるには。
「そうですね。やっぱり自分にとって一番、日本語をすぐ覚えられた理由は、僕が小学校5年の時に来た時には、ブラジル人があまりいなかったんですよ、同じクラスに。なので、日本人と一緒にいる時間がすごく多かった。でもやっぱり今の愛知県とか、僕のいた群馬県ではブラジル人の子どもがいっぱいいるんです。だからブラジル人同士だけで話すんですよね。僕も甥っ子たちがそういう経験をしているんですけど、そこでなかなか日本語をあまり使わない時間が自分の時より多くなっているんじゃないかな、というのが僕の感覚です」
Q:なるほど。そういう経験を含めて伝える場が今日だったわけですが、子どもたちの反応や講演の全体的な感想はいかがですか。
「ほんとに人前でこうやって自分の経歴を話すのが初めてだったんで、すごく緊張して。もうちょっとうまく伝えられたらよかったなって思っています。ただ、何て言うんだろう、少しでも通訳っていう仕事が、こういう道もあるんじゃないかなっていう風に、意識だけでもさせることができたら、それですごく嬉しいですね。でも、思った以上にみんなから質問などもあったので、そこはすごく楽しかったです」
Q:その子どもたちもいろいろな夢を持っていると思いますが、トニーさんの経験を通してお話されて、どんなメッセージを伝えたいと思いましたか。
「もちろん彼らの中にもいると思いますが、でも通訳になりたいっていう第一希望を持つ人は少ないと思うんです。どんどん言語に関わっていって、国際交流とかが彼らの中に始まってから興味が生まれると思うんです。たとえば本当に車が好きであればエンジンのことだとか、そういう方にやっぱり興味を持つわけじゃないですか。でも、そういう本当に自分がなりたい、やりたいっていう思いがある中でも、できないっていう時にじゃあどうしようかということもある。僕は、自分自身はほんとにサッカー選手になりたいという思いがあった中で、それになれなくて、もちろんスポーツの世界は難しいから。サッカー選手になれる人と、なれない人がいっぱいいて、自分はなれなかった時に、どういう風にすればスポーツに関わった状態で人の役に立てるのかっていうこと。そのメッセージが残せたなら、今日はそこだったかなと思っています。やっぱり自分が好きな業界の中で、自分がなりたいようになれなかった時には、どうしたらそこの業界に協力ができるのかっていう部分を考えていけるようになればなと」
Q:ところでトニーさんのルーツのところをもっと教えていただきたいです。ブラジルのどちら出身ですか。
「出身はサンパウロです。国籍はブラジルでパスポートも発行しているので、ブラジルですね」
Q:サッカーは6歳からやられているということですが、その後のキャリアは。
「高校から27歳までフットサルをやっていたんです。関東リーグとかでもプレーしていて、ちょうどFリーグができるかできないかという時でした。だから今でもFリーグの選手たちにはけっこう知っている人が多かったりします。しながわの監督の比嘉リカルドさんは僕のサッカーの先生だったんですよ。群馬県で。そういう関わりもあったんですが、でも22歳の時に膝の前十字をやっちゃって。それで27歳の時に辞めようか、ということになって。ここでサッカーを辞めて、だいたいの人は普通に会社に勤め始めて、そこからサッカーとの距離感ができることが多いんです。でも、ここでサッカーから離れたらもったいないなと思って、通訳になる機会があって、仙台での4年間を過ごさせてもらいました」
Q:2011年から仙台での通訳を。
「ちょうど大震災の時です。めっちゃ大変でした。Jリーグクラブでの通訳は初経験でした。で、2014年のブラジルでのワールドカップ開催が決まって、これは大チャンスだなと。本当にずっと夢を持ってたんです、世界的な大会に通訳としてできたらなと。その時にちょうどブラジルでワールドカップが決まって、次に16年もリオでのオリンピックが決まったので、いい機会だなと思って、仙台に残るチャンスもあった中で、ブラジルに1回帰る選択をしました。そこから3年間、ブラジルで生活しました」
Q:子どもたちに話した中で、通訳の先輩たちの訳を勉強していたのは面白いエピソードでした。
「はい。今でもDAZNとかで試合後のインタビューがあるじゃないですか。選手が先に話す、その後に通訳さんが話す。サッカー界にいる通訳さんたちはもうほんとに僕の先輩なんです。年上の人も多いので、彼らの通訳を見ながらずっと勉強してたんですよ。こういう時にはどういうような言葉遣いをするのかなとか。ピッチに向けての指示などでは全く不安はないんですけど、仙台での通訳が始まった時に、言葉遣いとかで、インタビューではどういう風に通訳されているのかなとか、それが気になって。インタビューを見ながら、勉強していました」
Q:引退してすぐに通訳ができたのもすごいですね。
「その時は仙台に通訳が必要だったようで、25歳かな、最初は25歳の時に話があったんですけど、『もうちょっと選手をやりたいです』と返事をして。『じゃあ、辞めた時には教えて』となって、27歳の時また話があったんです。11年の1月にキャンプに行って、仙台はめっちゃ寒いから宮崎とかでキャンプを1ヵ月半ぐらいずっとやっていて。リーグ開幕した後に仙台に帰ってくる感じだったんですけど、その開幕が広島戦で、次の試合が名古屋戦だったんです。そこで名古屋の選手たちが仙台に向かっている時に大震災があったという」
Q:大変でしたね…。公式戦の最初の通訳は今思うとどれぐらいの出来だったって思いますか?
「でも、ほんとになんて言うんだろうな。マルキーニョスはもう日本でめっちゃ有名な選手だったんですよ。彼も日本語はかなりわかっていたので、ピッチ上では全然不安もなかった。自分もずっとサッカーやってたんで、専門用語とかもよく分かっていたので、あんまりもう彼に伝えることはそんなに多くなかった。だからどっちかというと楽しんでいました。公式戦1発目は、こんな舞台に俺がいるんだ、っていうところが上回ってました」
Q:子どもたちに話していた、すごく緊張した場面のことも聞かせてください。
「2012年ですかね。仙台がめっちゃ強かった時があったじゃないですか。その後にACLにも出場する、たしか仙台が2位になったシーズンです。ベガルタ仙台の選手ではウイルソンがベストイレブンに選ばれて、Jリーグアウォーズでのインタビュー。あれはめっちゃ緊張しましたね。でも、緊張した上で楽しかった」
Q:今後もこういう機会があればやりたいですか。
「はい、全然。伝わるものがあるならば。あんまり僕にはそんな興味を持たれることはないかなと個人的には思いますけど(笑)。少しでも子どもたちに、こういう業界もあるっていうのが伝えられたなら嬉しいです。もうちょっと勉強しなきゃいけないですけどね、人前で喋るってことを(笑)。緊張しました。自分がメインで話すことはそんなにないんですよね。ほんとに人の気持ちを伝えるのが仕事なので。でも楽しかった。いい経験でした」